下妻藩(読み)しもつまはん

藩名・旧国名がわかる事典 「下妻藩」の解説

しもつまはん【下妻藩】

江戸時代常陸(ひたち)国真壁(まかべ)郡下妻(現、茨城県下妻市)に藩庁をおいた、初め親藩(しんぱん)、のち譜代(ふだい)藩。室町時代からの在地領主多賀谷(たがや)氏が、関ヶ原の戦いで西軍に与したため、1601年(慶長(けいちょう)6)に改易(かいえき)され、06年に徳川家康(とくがわいえやす)の11男頼房(よりふさ)が10万石で入封(にゅうほう)した。以後、15年(元和(げんな)1)に松平忠昌(ただまさ)3万石、16年松平久松)定綱(さだつな)3万石と続いたが、1618(元和4)年に定綱が遠江(とおとうみ)国掛川に転封(国替(くにがえ))となり、しばらくは天領となった。1712年(正徳(しょうとく)2)に旗本の井上正長(まさなが)が1万石で入封、下妻に陣屋を創設して再立藩した。以後、明治維新まで井上氏14代が存続した。1871年(明治4)の廃藩置県により、下妻県を経て茨城県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下妻藩」の意味・わかりやすい解説

下妻藩
しもつまはん

常陸(ひたち)国の西端、下妻(茨城県下妻市)に設置された藩。室町期以来の在地領主多賀谷(たがや)氏が重経(しげつね)の代の1590年(天正18)6万石を受封したが、1601年(慶長6)関ヶ原の戦い後の処分で改易。1606~09年には徳川家康の十一男頼房(よりふさ)が10万石、ついで1615~16年(元和1~2)松平忠昌(ただまさ)(結城秀康(ゆうきひでやす)二男)3万石、1616~19年松平(久松)定綱(さだつな)3万石をもって下妻を城下としたが、定綱が遠江(とおとうみ)掛川に転封したのち、しばらく幕府直轄領となる。1712年(正徳2)旗本井上正長(まさなが)が2000石を加増されて入部常陸国真壁(まかべ)郡、武蔵(むさし)国埼玉(さきたま)郡、下野(しもつけ)国都賀(つが)郡においてすべて1万石を領し、下妻に陣屋を置いた。井上氏は正長ののち正敦(まさあつ)、正辰(まさとき)、正意(まさむね)、正棠(まさき)、正広、正建(まさのり)、正盧(まさとも)、正民、正健(まさたけ)、正誠(まさよし)、正信、正兼、正己(まさおと)と相続して明治維新を迎えた。廃藩置県後、下妻県となり、さらに茨城県に編入された。

[所理喜夫]

『『下妻市史』(1979・下妻市)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下妻藩」の意味・わかりやすい解説

下妻藩
しもつまはん

江戸時代,常陸国 (茨城県) 新治郡下妻地方を領有した藩。結城氏家臣多賀谷氏が6万石で立藩,慶長 11 (1606) 年徳川 (水戸) 頼房が 10万石で入封,その水戸転封後,松平 (結城) 氏が3万石,松平 (久松) 氏が3万石で在封,元和5 (19) 年から正徳2 (1712) 年まで幕領,のち井上氏が1万石で入封,廃藩置県にいたる。井上氏は譜代,江戸城菊間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「下妻藩」の解説

下妻藩

常陸国、下妻(現:茨城県下妻市)周辺を領有した藩。藩主は松平氏、井上氏など。

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