結城氏(読み)ゆうきうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「結城氏」の意味・わかりやすい解説

結城氏
ゆうきうじ

中世下総(しもうさ)の豪族。祖は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末裔(まつえい)下野(しもつけ)小山政光(おやままさみつ)の三男朝光(ともみつ)で、1183年(寿永2)の志田義広(しだよしひろ)の乱の功で得た下総結城郡(茨城県結城市)に移り、結城氏を称したのに始まる。代々幕府の御家人(ごけにん)の上席に列し、また各地に一族を分出させて繁栄した。鎌倉後期、祐広(すけひろ)は本宗下総結城家から分かれ、陸奥(むつ)白河結城(しらかわゆうき)氏の祖となる。その子宗広(むねひろ)は北条得宗(とくそう)との関係を強めるが、建武(けんむ)政権以降、一貫して南朝方についた。一方、下総結城家は足利尊氏(あしかがたかうじ)が挙兵すると終始その先鋒(せんぽう)となって転戦し、朝祐(ともすけ)・直朝(なおとも)の2代が戦死、一時衰退ののち、直光(なおみつ)が安房守護(あわしゅご)、基光(もとみつ)が下野守護となり、結城氏の最盛期を築いたが、1441年(嘉吉1)氏朝(うじとも)が結城合戦で自殺し一時断絶をみた。しかし1449年(宝徳1)足利成氏(しげうじ)が関東公方(くぼう)家を再興すると氏朝の遺児成朝(しげとも)も結城氏を再興。1499年(明応8)政朝(まさとも)が家中統制に成果をあげ、その子政勝(まさかつ)は小田氏治(おだうじはる)を破って勢力を伸ばし「結城家法度(はっと)」を制定。次代晴朝(はるとも)は後北条・上杉両氏の圧迫を受けたがよく家を保ち、1590年(天正18)豊臣秀吉(とよとみひでよし)から領地を安堵(あんど)され、徳川家康の子秀康(ひでやす)を養子とした。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いののち、秀康は越前(えちぜん)北庄(きたのしょう)(福井市)へ転封となった。その子忠直(ただなお)のときに松平氏に改姓、以後、越前松平氏として栄えた。

[市村高男]

『『結城市史 第1、第4巻』(1977、80・結城市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「結城氏」の意味・わかりやすい解説

結城氏 (ゆうきうじ)

中世下総の有力在地領主。秀郷流藤原氏の正嫡下野大掾(だいじよう)小山政光の三男朝光を祖とする。朝光は1183年(寿永2)志田義広の乱の戦功により源頼朝から下総結城郡を与えられて結城氏を称し,やがて評定衆に列せられるなど鎌倉幕府の有力御家人に成長した。朝光の嫡男朝広は結城氏を継承,次男時光は寒川氏を,三男重光は山川氏を,四男朝村は網戸氏をおのおの称し,3代広綱の弟祐広は陸奥白河荘に移り白河結城氏の祖となるなど,同族ともに繁栄した。しかし鎌倉末期になると得宗専制支配の強化に加えて当主の若死が続き,家運は衰退した。南北朝内乱に際しては,勢力回復をめざして足利尊氏に属し各地を転戦したが,6代朝祐は九州多々良浜で,7代直朝も常陸関城でおのおの戦死し,衰退の一途をたどった。8代直光のときようやく勢力を回復,14世紀後半には安房守護となり,9代基光は小山義政の乱を鎮定,のち小山氏にかわって下野守護となった。1440年(永享12)11代氏朝は,永享の乱で自殺した鎌倉公方足利持氏の遺児を擁し,関東管領上杉氏に不満を持つ領主層を結城城に結集させ,1年に及ぶ籠城戦を展開したが,幕府・上杉連合軍に敗れて自殺した(結城合戦)。鎌倉公方足利氏の再興に伴い,氏朝の遺児成朝が結城氏を再興したが,重臣多賀谷祥永に暗殺され,次代氏広も若死して再び衰退の兆しを見せた。しかし99年(明応8)氏広の子政朝は,多賀谷和泉守を打倒して家中統制に成果をあげ,宇都宮・小田氏を圧して勢力をのばし,その子政勝は1556年(弘治2)北条氏康と結び小田氏治を破って領土を拡大,家中統制のため《結城家法度》も制定した。次代晴朝は後北条・上杉氏の圧迫を受けながらもよく家を保ち,90年(天正18)小田原に参陣して豊臣秀吉から領地を安堵された。徳川家康の子秀康の入嗣にともない晴朝は隠居,結城氏の徳川化が進んだ。1601年(慶長6)秀康は越前67万石へ転封,のち結城氏は秀康の五男直基が継承した。
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百科事典マイペディア 「結城氏」の意味・わかりやすい解説

結城氏【ゆうきうじ】

中世下総(しもうさ)の有力豪族。藤原秀郷の後裔で,下野(しもつけ)の小山(おやま)氏と同族。鎌倉幕府有力御家人。鎌倉後期には陸奥(むつ)白河結城氏など多くの庶流を分出して発展。下総結城氏は安房(あわ)・下野守護となるが,結城合戦で一時衰退。その後古河公方(こがくぼう)・後北条氏と結んで勢力を回復,16世紀半ばに結城政勝は《結城家法度》を制定して家中を統制。しかし政勝の養子晴朝は徳川家康の子秀康を入嗣,秀康は1600年越前(えちぜん)に転封となり,福井藩主松平氏を称した。結城の家名は秀康五男の直基が継いだが,のちに松平に改名したため名字は絶えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「結城氏」の意味・わかりやすい解説

結城氏
ゆうきうじ

藤原秀郷5世の孫頼行を祖とし,朝光のとき上野介となって下総結城を領しこれを姓としたことに始る。朝光の孫祐広が陸奥白河に移って白河結城氏を興し,以来2流に分れた。南北朝時代には下総結城氏は足利氏に属し,白河結城氏は南朝方を支持した。永享 12 (1440) 年結城合戦に敗れて,翌年氏朝は自殺し下総結城氏は一時断絶した。宝徳1 (49) 年成朝のとき再興し,結城地方で勢力をふるった。弘治2 (1556) 年政勝のとき制定した『結城家法度』は戦国時代の分国法として有名である。その後徳川家康の子秀康を養子とし,越前北庄 67万石を領し,寛永3 (1626) 年松平氏と改称した。一方,白河結城氏は天正 17 (1589) 年豊臣秀吉によって滅ぼされた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「結城氏」の解説

結城氏
ゆうきし

中世下総国の豪族。小山(おやま)氏の一流。小山政光の三男朝光(ともみつ)が,源頼朝をたすけた功で下総国結城郡(現,茨城県結城市)を与えられ,この地を本拠に結城氏を称したのに始まる。鎌倉幕府の有力御家人となり,白河結城・寒河(さむかわ)・大内・網戸(あじと)の諸氏を輩出。南北朝期には足利方に従い,安房・下総両国の守護となり,鎌倉府の重鎮として活躍。11代氏朝(うじとも)のとき結城合戦で断絶したが,まもなく再興。戦国期には結城城主政勝(まさかつ)の名により「結城氏新法度(はっと)」が制定された。天正年間豊臣秀吉に従い,所領を安堵された。のち徳川家康の子秀康を養子に迎えた。慶長年間越前国北庄(きたのしょう)(現,福井市)へ転封され,松平氏に改姓。白河結城氏は,秀吉の奥羽平定で改易となり,伊達氏家臣となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「結城氏」の解説

結城氏
ゆうきし

中世,下総国の豪族
藤原秀郷5世の孫頼行が祖。朝光のとき源頼朝に従って旧領下総結城地方(茨城県西部)を安堵され,結城氏を称す。鎌倉幕府の有力御家人。南北朝時代は一族の間で南北両朝に分かれて対立した。室町時代,一時衰えたが,やがて再興し,16世紀中ごろ,政勝は結城家法度を制定,最盛時を現出した。その子晴朝 (はるとも) に後嗣がなく徳川家康の子秀康を養子とした。秀康は1600年越前北庄に移り,松平と改称(越前家)し,結城家は秀康の4男直基が継いだ。

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世界大百科事典(旧版)内の結城氏の言及

【下野国】より

…さらに41年(興国2∥暦応4)の藤氏一揆は親房を悩ませた。それは,前関白近衛経忠が藤原氏子孫の小山氏や常陸の小田氏,結城氏に働きかけ,いわゆる藤原同盟を結成し,経忠自身が天下の政権をとり,小山朝郷(朝氏)が〈坂東管領〉になるという構想であり,明らかに南朝でも北朝でもない第三王朝の建設を目ざしたものである。この構想は46年(正平1∥貞和2)小山朝郷の死で実現に至らなかったが,動乱の最中における注目すべき動向であった。…

【常陸国】より


[戦国時代]
 そのような中から,新しく勢力を蓄えて登場する江戸氏,同族山入氏との内紛に苦慮しつつも勢力を保持し続けてきた佐竹氏,府中にあってかろうじて国の中央部を支配してきた大掾氏,鹿島・行方両郡に地盤を保ち続けてきた常陸平氏庶流の諸氏,筑波南麓を中心に依然存在し続ける小田氏などが,戦国期の常陸国の動向に関係する勢力である。加えて下総の結城氏の戦国大名化の動きも,常陸国へ大きな影響を及ぼしてくる。佐竹義舜は1504年(永正1)宿敵山入氏義を滅ぼして,100年にわたる一族間の内紛に決着をつけ,戦国大名化への第一歩を踏み出した。…

【松平氏】より

…【新行 紀一】
[越前家]
 初代将軍徳川家康の次男秀康の子孫をいう。秀康は豊臣秀吉の養子となり,ついで関東の名族結城晴朝の養子となって結城氏を称した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後越前国67万石を領有して北ノ庄(福井)城に住し,2代将軍秀忠の代には将軍の兄として特別の待遇を受けた。…

【結城[市]】より

…結城台地の北部と鬼怒川西岸の沖積地からなり,JR水戸線と国道50号線が通じる。中世には結城氏の本拠地,近世には結城藩の城下町として発達した。古くから桑園が多く養蚕業が盛んで,特に農家の副業として発達した結城紬(つむぎ)は水野氏の保護奨励や,また大正期に細工紬の技術が導入されたこともあって現在に至るまで特産品として知られている。…

※「結城氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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