下小田村(読み)しもおだむら

日本歴史地名大系 「下小田村」の解説

下小田村
しもおだむら

[現在地名]焼津市下小田下小田中町しもおだなかまち石津中町いしづなかちよう石津向町いしづむかいちよう

道原どうばら村の東に位置し、志太しだ郡に属する。南東田尻北たじりきた村。文亀二年(一五〇二)六月吉日の恵順道者職売券(橋村家文書)に「下小田村里一円」とあり、当村の道者職が伊勢御師恵順から同御師橋村八郎大夫へ売渡されており、旦那として「助三郎殿、大石ゑもん三郎殿」がみえる。慶安二年(一六四九)の駿河国高付(志太郡誌)では田方三八二石余・畑方五八石余。


下小田村
しもおだむら

[現在地名]小野市小田町

名村田なむらた村の東に位置し、東条とうじよう両岸の低地に集落を形成する。耕地は両岸の丘陵縁辺部まで広がる。西の加古川流域の村々と東条谷から丹波山城を結ぶ街道筋に立地し、中世・近世を通じて交通の要衝であった。慶長国絵図に小田村とみえる。正保郷帳にも小田村とあり田方八〇五石余・畑方二四石余。延宝七年(一六七九)の下小田村の検地帳(小田下町有文書)が残ることから、これ以前に小田村が上・下に分村していたことがわかる。元禄郷帳では高三六一石余、「古ハ小田村」の肩書がある。


下小田村
しもおだむら

[現在地名]福知山市字下小田

由良川の支流まき川の下流両岸にまたがり、東は野端のばな村、南は姫髪ひめがみ山を越えて大門だいもん村、北は山を隔てて常願寺じようがんじ村に接する。中央を但馬街道が東西に通り、村の東部で出石いずし街道が合する。江戸初期には小田村一村であったが、のち上下二村に分れた。


下小田村
しもおだむら

[現在地名]玉名市下小田

西境を菊池川が南流し、東は山部田やまべた村、北は上小田村、南はしも村と接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳によると田一九町七反六畝余・畠屋敷三二町四反二畝余・屋敷三二筆、分米四九六石六斗、下ケ名に柿木町・をどり田・新宮のまへなどがある。近世は内田手永に属する。天保五年(一八三四)の同手永手鑑では高四九六石六斗・御土物成二七八石九斗、田一八町三反九畝・畑三一町三反二畝余。


下小田村
しもおだむら

[現在地名]八鹿町下小田

上小田の北、円山まるやま川中流域左岸にあり、北は宿南しゆくなみ村。近世の領主の変遷は舞狂ぶきよう村に同じ。もとは宿南村の一部で、正保四年(一六四七)の検地までに村切されて一村となったというが、寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえる。正保頃成立の国絵図では高七七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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