小田城跡(読み)おだじようあと

日本歴史地名大系 「小田城跡」の解説

小田城跡
おだじようあと

[現在地名]筑波町小田

常陸国守護八田知家を始祖とする小田氏一五代(小田系図など)居城三村みむら山から南麓の小田地区にかけて遺構が残る。小田地区の平城遺構は国指定史跡。平城東北の小山であるまえ山にも明確な城郭遺構が残り、三村山頂にも若干の土塁と堀の遺構がある。平城部分には古態もうかがわれ、八田知家の頃の守護館が小田城の原型になったものと思われる。平城遺構内には涼台すずみだいとよばれる一区を有する主郭のほか、田土部郭たどべぐるわ信田郭しだぐるわ馬場ばば鍛冶屋敷かじやしき根堀ねほり鴨屋敷かもやしき館下たてした信縄のぶな今道場いまどうじよう中城なかじよう城の内じようのうち新右衛門屋敷しんえもんやしき丹後屋敷たんごやしき南館みなみたてなどの小字名が確認できる。土塁を削り落して堀を埋め、水田としている所が多いが、堀跡の判定は容易である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「小田城跡」の解説

おだじょうあと【小田城跡】


茨城県つくば市小田にある城跡。宝篋(ほうきょう)山の南西尾根の麓にあり、東西約1km、南北約700mの城域をもち、築城当初は本丸を中心に、四方に堀と土塁をめぐらせた館であったといわれる。鎌倉時代から戦国時代まで小田氏の居城であり、小田氏の祖、鎌倉御家人だった八田知家が1185年(文治1)に常陸(ひたち)守護に任じられ、この地に居館を構えたことが始まりという。南北朝時代に、城主小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房(ちかふさ)などが入城した。1338年(延元3・暦応1)に小田城に入った親房は、後醍醐(ごだいご)天皇崩御の知らせをここで聞き、幼帝後村上天皇のために南朝の正統性を述べる『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を記したとされている。戦国時代には、小田氏は佐竹氏、多賀谷氏、真壁氏や上杉謙信、後北条氏らと抗争を繰り返し、後に後北条氏と結んだ小田氏治は、1569年(永禄12)の手這坂(てばいざか)の戦いで敗れ、城は佐竹氏のものとなった。そして、城は佐竹氏が城代として守らせた梶原政景によって改修され、現在知り得る姿になった。その後、1602年(慶長7)の佐竹氏の秋田移封にともなって、廃城となった。戦国期には周辺は湿地帯であったため、堀はほとんど水堀で、中心部に築かれた東西120m、南北140mの主郭(しゅかく)は、土塁と3重の堀に囲まれ、土塁の隅には櫓(やぐら)台跡が確認された。1935年(昭和10)に国指定史跡になり、1997年(平成9)から発掘調査が行われ、整備事業も進んでいる。つくばエクスプレスつくば駅から車で約30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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