下浦村(読み)しもうらむら

日本歴史地名大系 「下浦村」の解説

下浦村
しもうらむら

[現在地名]甘木市下浦・中原なかばる

上浦村の南西、小石原こいしわら川下流の平野部に位置する。夜須やす郡に属し、元和九年(一六二三)からは秋月藩領。南東は草水そうず村、北西山隈やまぐま(現三輪町)、南は筑後国御原みはら稲数いなかず(現大刀洗町)、南西は同郡本郷ほんごう(現同上)。「続風土記」は当村の枝村として甲場こうば村をあげる。天正一六年(一五八八)一〇月二日の坪付帳(新撰宗像記考証)にみえる「下宇羅庄屋名」を当地とする説がある。小早川時代の指出前之帳では下浦村の田五〇町八反余(分米六五七石余)・畠一二町一反余(分大豆五七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千二五八石余、うち大豆一四〇石余(慶長石高帳)


下浦村
しもうらむら

[現在地名]石井町浦庄うらしよう 下浦

上浦村の東に位置し、南は広野ひろの(現神山町)、東は城之内じようのうち村、北は諏訪すわ村・国実くにざね村。北部は飯尾いのお川の沖積平野、南部は山地にかかる。中世の浦庄・浦新庄の遺称地とされる。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「下うら」とみえる。慶長二年の分限帳によると傍木半兵衛が一七一石余、蜂須賀与三右衛門が一〇〇石、了意入道が五〇石を知行。また同帳の末尾に山崎四郎右衛門知行分として当村の二〇〇石(もと与三右衛門分)・中野藤左衛門知行分二五〇石のうちに当村の七五石があり、同三年以降に給されたものとみられる。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)によれば、渡辺古の知行高は七四石余、人数五、新開高七石余とある。正保国絵図では高五九〇石余。


下浦村
しもうらむら

[現在地名]本渡市下浦町

北は志柿しかき村、東は馬場ばば(現天草郡栖本町)に接し、南西は本渡ノ瀬戸を隔てしも島の楠浦くすうら村と相対している。平坦地が狭隘で、耕地の大半は近世以降の干拓。全域に山岳が重畳し入江が屈曲する。須森すもりの岬に古墳時代後期の横穴式石室をもつ須森古墳があり、戸の崎とのさきに中世の梵字板碑が残る。下浦湾内に上血塚かみちづか・下血塚両島、たけ島などが点在し、至る所暗礁がある。伊能忠敬の「測量日記」は上血塚島を「上チヽガ島」、下血塚島を「下チヽガ島」と記す。伝承によれば、血塚島の名は壇之浦合戦に敗れた平家の落武者藤原蔵人行綱が源氏の追捕使と戦って、鮮血に染まったためという。

正保郷帳に村名がみえ、高九八石五斗余とある。


下浦村
しもうらむら

鶴見つるみ半島南岸から日向境までの海岸地帯、現米水津村・蒲江かまえ町域を占め、正保郷帳に載る米水津郷に属する浦代うらしろ浦ほか四ヵ浦、入津にゆうづ郷に属する畑野はたの(現蒲江町)ほか三ヵ浦、蒲江郷に属するとまり(現同上)ほか七ヵ浦を含む。この領域はそののち佐伯藩によって下浦村(下浦村組)として把握され、元禄郷帳に下浦村とみえ、高五五〇石余。天保郷帳では高一千五六〇石余。領域については元禄見稲簿では下浦村は無高の竹野たけの浦・浦・浦代浦・宮野みやの浦・色利いろり浦、西野にしの浦・竹野浦河内たけのうらごうち・泊浦・畑野はたの浦・楠本くすもと浦・河内かわち浦・猪串いのくし浦・野々河内ののかわち浦・森崎もりさき浦・丸市尾まるいちび浦・葛原かずらはら浦・波当津はとうづ(現蒲江町)で構成とある。


下浦村
しもうらむら

[現在地名]小高町下浦

井田川いだがわ浦の南岸に位置し、東は浦尻うらじり村、北西は行津なめづ村、南は標葉しねは幾世橋きよはし(現浪江町)。なお井田川浦は、大正九年(一九二〇)からの干拓工事によって現在は消滅している。初め標葉郷に属し、正保郷帳では標葉郡内として田方二〇八石余・畑方四三石。明暦二年(一六五六)から小高郷の所属となる(奥相志)。同年の高二一六石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高一九七石余。なお元禄検地高は三四四石余、ほかに新田二五石余がある(奥相志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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