下立山(読み)おりたてやま

日本歴史地名大系 「下立山」の解説

下立山
おりたてやま

若狭街道花折はなおれ峠の東、権現ごんげん(九九六メートル)南西に位置し、標高八一七メートル。折立山とも記され、中世には同街道に延暦寺山徒が立てたとされる下立関があった。「輿地志略」には「折立山 山城峠の北にあり、山城・近江の堺なり」と記されるが、中世にはより広い地域を下立山とよんでおり、葛川かつらがわ伊香立いかだち庄との間で、その領域の範囲および領有をめぐって長い相論があった。なお、以下断りのない限り葛川明王院史料による。

〔境相論〕

建久八年(一一九七)七月一九日の無動寺政所下文は「下立山住人」に下されており、「下立為大見庄可被打之由風聞在之」「彼所往古葛川領内也」といった文言がみえる。しかし、この下文は後世の偽文書の疑いが濃く、確実な史料で下立山の呼称を確認できるのは文永六年(一二六九)一〇月日の葛川常住并住人等申状案で、「葛川山之中於下立山」とみえる。

葛川と伊香立庄とは、建保六年(一二一八)、建長八年(一二五六)と度々相論を繰返した(建保六年一一月日葛川常住僧賢秀陳状案・建長八年七月一七日快弁申状案)両者争点は、相応が開いた聖域としての葛川の地を、どちらが実質的に領有するかにあった。葛川側は「明王」よりこの地を預かった葛川住人こそが正当な居住者であると主張、伊香立庄側は、本所青蓮院門跡より制限付きではあるが葛川における炭焼の許可を得ていたことを根拠に、自分たちこそがこの地の守護者であると主張していた。さらにこの地が聖域であることを理由に、伊香立庄側は葛川住人の居住そのものを、葛川側は伊香立庄民の生産活動を厳しく非難していた。相論の過程で彼らが見いだした妥協の道は、葛川のなかで最も神聖と考えられていた御殿尾滝ごてんおたき山とよばれた地域を、不可侵の聖域と規定することによって、それ以外の葛川の地におけるそれぞれの居住権・用益権の行使を認め合い、暗黙裏に聖域葛川の開発を進めることであった。

文永六年の相論は、新たに葛川を二つに分割することで、葛川内における葛川住人と伊香立庄民の活動地域を分けようとする葛川側によって仕掛けられた。同年一〇月の前掲申状案には伊香立庄の「後山切尽之由、依歎申、庄官等葛川山之中於下立山、庄官三人炭竈御免許事在之」とあり、葛川側が下立山を「葛川山」のなかの一部とみて、そこに伊香立庄の用益権を認めようとしていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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