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近江国滋賀郡の山間村落。現在の滋賀県大津市葛川地区にあたる。比叡山延暦寺の回峰行者(かいほうぎょうじゃ)衆の修験道場として、9世紀中ごろに相応(そうおう)によって同地に明王院(みょうおういん)が建立されたのが始まり。のちに延暦寺の門跡(もんぜき)寺院青蓮院(しょうれんいん)と、延暦寺を構成する無動寺(むどうじ)による領主支配を受けた。山岳修験の霊場であったため、同地の開発は領主によって厳しく制限されたが、平安時代末期以降、近隣荘園の住民や、葛川の住民の手による山野の開発が進行すると、境界をめぐっての近隣荘園との争いがたびたび発生した。わけても、1317年から1319年(文保1~元応1)にかけての伊香立荘(いかだちのしょう)との争いは著名で、そのおりに作成された2葉の絵図が現存する。こうした事態の進行によって、領主側がとった、葛川に居住する住民数の制限政策や、開発抑制政策は、有名無実化していった。室町時代になると、山野や耕地の開発はさらに進展し、16世紀には、今日の字名につながる諸集落が成立した。
[坂田 聡]
『坂田聡著『日本中世の氏・家・村』(1997・校倉書房)』▽『水野章二著『日本中世の村落と荘園制』(2000・校倉書房)』▽『高木徳郎著『日本中世地域環境史の研究』(2008・校倉書房)』
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…彼らの田畠や山野河海における生産諸活動の新たな展開が,境相論を何度も繰り返させたのであった。近江の山間の霊場葛川(かつらがわ)の場合,隣荘伊香立荘との境相論を,鎌倉時代だけでも1218年(建保6),56年(康元1),69年(文永6),83年(弘安6),1317年(文保1)から翌年,29年(元徳1)から翌年にかけての計6度も繰り返している。中世後期になると,境相論の法的原則は,〈根本の道理に任せて,公方の御沙汰たるべし〉とか〈何様にも公方へ訴訟申すべし〉とされているが,実際には荘園領主は訴訟の形式的仲介に立つだけであり,幕府や守護も刑事事件の処理以上のことはしなかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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