不動堂村
ふどうどうむら
[現在地名]小牛田町 藤ヶ崎町・素山町・桜木町・化粧坂・志賀殿・峯山・西館・塔の越・塩釜など
東流する鳴瀬川の左岸沿いにある小丘鶴頭山を中心として成立した村。東は和田多沼村(現南郷町)、南は鳴瀬川を介して須摩屋村(現志田郡松山町)、西は北浦村と志田郡青生村、北は馬場谷地村(現涌谷町)。涌谷(現同上)・松山(現松山町)に至る道が通る。大半は氾濫原で、西方には北浦村彫堂からの丘陵が連なり、その末端は峯山とよばれる。この山の南西方にある小山は現在志賀殿とよばれるが、「安永風土記」では「しかん堂山」と記す。また藤ヶ崎に西提子沼、しかん堂に東提子沼があったという。北部を西から東へ流れる出来川は、当地一帯の農業用水として古くから知られる。村名の由来について「安永風土記」は、古くに勧請された不動明王にちなむとする。この不動明王は、大手小路の村鎮守不動堂の本尊をさす。
不動堂村
ふどうどうむら
[現在地名]富士見村時沢
原之郷・小沢新田の東に位置し、白川・芦ヶ関川が流れる。大胡(現大胡町)への道が通り白川に白川橋が架かっていた。このほか前橋から赤城山大洞の赤城神社への参道である赤城街道(前橋道)も通る。「郡村誌」は「古時、時沢郷ト称ス、通音ヲ訛テ徳沢ト改、年号干支不詳、又文禄之頃徳沢村ヲ字ト成シ、村名ヲ不動堂村ト段々転改ス、分テ小暮村ヲ置、其後慶長年間之頃新田ヲ開拓シテ中島村ヲ置」と記す。小暮村は北、中島村は北西に続く。また当地奈良家の系図によると、天正年間(一五七三―九二)に七谷川村に住み近在一八郷を領した橘勝章が、守本尊である不動明王をのちの不動堂村の南、一本椿付近に堂を建て安置した。のちに霊験あらたかで村民を助けたので、村民はこぞってこの地域を不動堂村とよぶようになった。
不動堂村
ふどうどうむら
[現在地名]九十九里町不動堂、東金市不動堂飛地
貝塚村の南東に位置し、南東は九十九里浜に面する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に不同道村とみえ、高一六四石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では西野組に属し、高一四〇石、与力給知。与力は江戸南町奉行組与力とみられ、元和五年(一六一九)より幕末まで同給知(九十九里町誌)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二〇六石余、家数五二、与力給知のほかに幕府領がある。
不動堂村
ふどんどむら
[現在地名]大野市不動堂
高尾岳の南裾に位置し、西南は萩ヶ野村。天文八年(一五三九)一〇月一八日付平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「坂谷村不動堂」がみえる。慶長三年(一五九八)七月二三日付奥野九郎右衛門他連署状(春日神社文書)によると、当村の四至は「東ハぢぞう石大岩原境、西ハミやうと石尾境、南ハから谷川境、北ハ尾境」であった。
同年の検地帳写(島田家文書)によれば、田方二六町四反余で分米四〇六・二一六石、畠方五町九反余で分米九一・七二四石、分米のうち六五・四四石は荒地、名請人は八九石余のおもや佐平を筆頭に計二八名。
不動堂村
ふどうどうむら
[現在地名]朝日町不動堂
小川右岸にあり、北は大家庄村、東は殿村・藤塚村、西から南は横水村。元禄一五年(一七〇二)の新川郡邑名来歴(下新川郡史稿)は不動堂があったための村名と記している。正保郷帳では高一三二石余、田方八町五反余・畑方三反余、新田高六一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一七六石、免五ツ七歩ときわめて高く、小物成は野役二〇匁(三箇国高物成帳)。
不動堂村
ふどうどうむら
[現在地名]五泉市不動堂
早出川の谷口右岸に位置し、北は柄沢村に接する。正保国絵図に一〇六石余とあり、村上藩領であった。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では笹堀組に属し、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には高一一〇石三斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となるが、正徳元年(一七一一)高田藩領、のち白河藩領となり、文化年間(一八〇四―一八)の家数は二六(白川風土記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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