インドのカースト社会で,4バルナ(種姓)の枠の外に置かれてきた最下層民。4バルナに属する一般住民(カースト・ヒンドゥー)にけがれを与える存在とみられ,〈触れてはならない〉人間として社会生活のすべての面で差別されてきた。ヒンディー語でアチュートachūt,英語でアンタッチャブルuntouchable,アウト・カーストout-casteと呼ばれ,またガンディーは彼らに〈神の子〉を意味するハリジャンharijanという呼称を与えた。欧米ではパリアpariahの名でも知られる。今日では〈不可触民〉を意味する差別用語は使われず,公式に指定カーストscheduled casteと称される。
浄・不浄の思想に強く支配され,人間や職業をそうした観点から眺めることをつねとしたヒンドゥー教の社会において,賤民制は複雑な発達をとげた。すでに前6~前5世紀の文献にチャンダーラと呼ばれる不可触民が現れる。その後,古代,中世を通じ,農耕社会の周辺で狩猟・採集生活を送っていた部族民の一部や,賤業視される職業に従事していた集団が不可触民とみなされ,社会の最下層に位置づけられた。彼らは多数のカーストに分かれ,各カーストは皮革加工,汚物清掃,洗濯,屠殺など,賤業とみなされる職業と結ばれていた。不可触民カーストの成員は,父祖伝来の職業に従事するとともに,しばしば農業労働者や村落の雑役人となっている。
どのカーストを不可触視するかについては地方差もある。1931年の国勢調査では,不可触民か否かを判定する基準として,(1)バラモンのサービスを受けることができるか否か,(2)カースト・ヒンドゥーに奉仕する床屋,水運び,仕立屋などのサービスを受けることができるか否か,(3)接触や接近によって上位のカースト・ヒンドゥーにけがれを与えるか否か,(4)彼らの手からカースト・ヒンドゥーが水を受け得るか否か,(5)道路,渡船,井戸,学校などの公共施設を利用できるか否か,(6)ヒンドゥー寺院への立入りができるか否か,などの9項目をあげている。こうした項目から不可触民差別の実態をうかがうことができる。今日,指定カーストの数は400~500におよび,91年の国勢調査によるとその人口は約1億3822万,インド(バーラト)総人口の約16.5%を占めている。
イギリスの植民地であったインドで,19世紀半ばごろから,社会改革家や都市に住む不可触民の間に,不可触民の地位向上を目ざす運動がみられるようになった。20世紀に入ると,イギリスは分割統治政策の一環として不可触民の代表に立法府の議席を与える方策をとり,また1935年のインド統治法では不可触民を〈指定カースト〉と呼び保護を加えている。これに対し,民族運動の指導政党である国民会議派も,1917年の年次大会で不可触民制撤廃を綱領の一つとして採用し,その後ガンディーの指導下に社会改革運動を進めた。ガンディーが〈不可触民制が存在するかぎり独立しても意味がない〉と主張し,民族運動指導と同時に不可触民解放運動に献身したことはよく知られている。一方,不可触民出身のアンベードカルは,ガンディーの運動を温情主義として批判し,ガンディーがヒンドゥー教とバルナ制度の擁護にまわったのに対し,それらの破壊によって初めて不可触民は解放されると主張した。
独立後の50年に施行されたインド憲法には,不可触民制の廃止と指定カースト向上政策の実施がうたわれている。憲法のこの精神を実効あらしめるため,不可触民差別を罰する〈不可触民制(犯罪)法〉が55年に制定された(1976年に〈市民権保護法〉と改称)。また共和国政府は,指定カーストの社会的・経済的・政治的向上を目ざし,教育(奨学金,授業料免除,教材支給など),官職(官職の一定割合を指定カースト出身者に割り当てる),選挙制度(指定カースト出身者に一定数の議席を与える)などの面でさまざまな優遇政策を実施してきた。しかし,不可触民制は今日においてもなお社会に根深く残り,その撤廃は現代インドが解決すべき最重要の課題の一つとなっている。
→カースト
執筆者:山崎 元一
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インドの被差別民(賤民(せんみん))諸集団の総称。英語のアンタッチャブルの訳語であるが、今日ではその使用を避けて、指定カースト(Scheduled Castes)という呼称が多く用いられている。
サンスクリット語ではアスプリシュヤという。これは可触民(スプリシュヤ)という語に否定辞アがついたもので、文字どおり触ってはならない者という意味である。アスプリシュヤという社会階層概念は紀元前後に成立した『マヌ法典』にはみられず、それより少し後の『ビシュヌ法典』に初めて現れる。紀元後400~600年の成立とされる『カーティヤーヤナ法典』には、アスプリシュヤに関するより詳細な規定がみられるから、このころには、被差別諸集団を一括して不可触民とする考え方が定着してきたのであろう。しかし、不可触民という社会階層が本格的に形成されたのは7、8世紀のインド中世社会形成期以降であると考えられる。この時代、定着農耕社会が拡大し、村落共同体が形成され始め、それに伴って、多くの山間部族民が村落に吸収され、死獣の皮剥(かわは)ぎ、皮革細工、村域の清掃などに従事するようになっていった。この過程で同時に形成されたカースト制度において、彼らの多くは不可触民とされたと考えられる。不可触民カーストとしてよく知られたものには、北インドのチャマール、デカン高原のマハール、南インドのパライヤンなどがある。不可触制はイギリス植民地支配下にも本質的には変わることなく続いたが、20世紀になると、不可触民自身の解放運動が始まった。それを代表するのはマハールのB・R・アンベードカルで、インド独立に際しては憲法起草委員会委員長に就任し、憲法に不可触制廃絶を明記させた。しかし、なおも続く差別に抗議して、1956年、その死の年には、数十万人のマハールたちとともに仏教に改宗した。彼らはいま、新仏教徒とよばれている。
[小谷汪之]
『山崎元一著『インド社会と新仏教――アンベードカルの人と思想』(1979・刀水書房)』▽『B・R・アンベードカル著、山崎元一・吉村玲子訳『インド――解放の思想と文学(5) カーストの絶滅』(1994・明石書店)』▽『M・K・ガンディー著、森本達雄ほか訳『インド――解放の思想と文学(6) 不可触民解放の悲願』(1994・明石書店)』▽『篠田隆著『インドの清掃人カースト研究』(1995・春秋社)』▽『小谷汪之著『不可触民とカースト制度の歴史』(1996・明石書店)』▽『小谷汪之編『インドの不可触民――その歴史と現在』(1997・明石書店)』
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…このことは普通選挙制が実現した独立後の時期にはさらに重要となった。 ネルー時代の国民会議派の選挙における確固とした支持基盤は,彼自身の出身カーストであり知識階層の多くの人々のそれでもあるバラモン,分割後もインドに取り残されて社会的に不安定な立場にあるムスリム,ヒンドゥー社会の底辺を形づくる指定カースト(不可触民)の三つであったといわれる。この3者だけで全人口の30%をこえると推定される。…
…これに対しシュードラは入門式を挙げることのできない一生族(エーカジャekaja)とされ,再生族から宗教上,社会上,経済上のさまざまな差別を受けた。そして,シュードラのさらに下には,4バルナの枠組みの外におかれた不可触民(今日では指定カーストscheduled casteと呼ばれる)が存在した。彼らは〈第5のバルナに属する者(パンチャマpañcama)〉とも〈バルナを持たない者〉とも呼ばれる。…
※「不可触民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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