両替町(読み)りようがえちよう

日本歴史地名大系 「両替町」の解説

両替町
りようがえちよう

[現在地名]静岡市両替町一―二丁目・本通ほんとおり一丁目・呉服町ごふくちよう一―二丁目・上石町かみごくちよう昭和町しようわちようなど

駿府城の西に位置する城下縦筋(縦町)第三行の両側町。北端は横筋(横町)第八行の本通、東端横町第二行の鍛冶かじ町・江川えがわ町と交差する。北から南へ一丁目から六丁目に区画され、三丁目と四丁目の間を東海道が通る(以上、町方絵図)時之鐘鐘撞ときのかねかねつき堂がある。慶長一一年(一六〇六)徳川家康が京都の銀座の座人を当町に移し、一丁目から四丁目までをその宅地とし、二丁目に銀座役所(同一七年江戸京橋に移転)を建て金銀の両替屋を置いたのが町名の由来という(「史料綜覧」など)


両替町
りようがえまち

[現在地名]久留米市城南町じようなんまち

久留米城郭の南正面、外濠沿いにある。町並は東西に広がり、西は亀屋かめや町、外濠に架かる狩塚かりづか橋は城内への通路の一つ。町域では有馬氏の入部以前、毛利秀包代のキリシタン教会跡と推定される建物が確認され、一六〇〇年(慶長五年)頃の建造とされる(一六〇〇年一〇月二五日「イエズス会年報」)。また田中吉政・忠政代の濠跡も確認される(両替町遺跡)。当町居住の井筒屋庄左衛門家は古来から富家で銀蔵を建てており、町名はこれに由来すると推測されている(米府紀事略)


両替町
りようがえちよう

[現在地名]堺市宿屋しゆくやひがし一―二丁

宿屋町の東にあり、山口やまのくち筋を挟む両側町。安土桃山時代隆達節を創始した高三隆達一族の祖高三三郎兵衛道玄は貞和年間(一三四五―五〇)堺に移住し、銭屋ぜにや町で薬種交易の業を営んだと伝え(堺市史)、銭屋町の町名は当町と関係があるとも考えられる。元禄二年(一六八九)堺大絵図に「両替町」とあり、東頬一四筆・西頬一七筆の宅地で町会所は町内北東隅に所在。東頬に記される高三清兵衛、西頬の伊勢屋道務は貞享二年(一六八五)貿易再興後の糸割符商人(糸乱記)


両替町
りようがえちよう

[現在地名]中区丸の内まるのうち三丁目

茶屋ちやや町の東、きよう町の西にあり、ほん町筋と七間しちけん町筋の一丁をさす。ただし七間町筋より西へ一、二軒は京町支配(町名起因並町家由緒)。慶長一八年(一六一三)京の金工家で、のち幕府金座頭人を勤めた後藤庄三郎がここに通い所を建てた。その後、清須きよすより移住した両替屋二軒が京に上り、名古屋に両替屋がないのは不便だとして後藤屋敷を譲受け、ここに両替屋二軒ができて両替町と名付けられた(尾張城南陌名由緒)


両替町
りようがえまち

[現在地名]上越市なか町二丁目

須賀すか町の北、西裏町にしうらまち通と大手馬出しから西進する道の交点上に位置。正徳年間(一七一一―一六)の高田町各町記録(榊原家文書)に「両替町と申名由緒不存候」とあるが、高田開府以来両替業者が居住したことから起こったという(高田市史)。天和期(一六八一―八四)の調では役を負担する町で、須賀町と合せて屋敷数四〇、両町支配の名主一名(頸城郡誌稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の両替町の言及

【銀座】より

…町屋の発達につれて,この一画が銀座町と呼ばれるようになった。当時の流通経済の中心は金座のあった日本橋かいわいであったので,両替町とも呼ばれた日本橋に対して,銀座町かいわいは新両替町とも呼ばれた。銀の買入れや銀の保管に当たっていた銀座役所は,1800年(寛政12)日本橋蠣殻(かきがら)町(現在の人形町の一部)へ移転したが,町名としての銀座は残った。…

※「両替町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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