後藤庄三郎(読み)ごとうしょうざぶろう

精選版 日本国語大辞典 「後藤庄三郎」の意味・読み・例文・類語

ごとう‐しょうざぶろう【後藤庄三郎】

  1. 江戸幕府の金銀御改役。初代。名は光次。京都の人。後藤徳乗彫金鋳貨を学び、徳川家康に仕えて判金鋳造従事幕府の金銀御改役となり、金座・銀座の経営・管理にあたる。子孫代々世襲したが、一一代光包のとき、罪を得て、家は断絶。師家の大判座後藤に対し、小判座後藤と呼ばれた。元亀二~寛永二年(一五七一‐一六二五

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改訂新版 世界大百科事典 「後藤庄三郎」の意味・わかりやすい解説

後藤庄三郎 (ごとうしょうざぶろう)

江戸幕府金座主宰者(御金改役)。御金改役は後藤庄三郎家の世襲であって,幕府御用達町人の上座を占めた。初代庄三郎(1571-1625)はその由緒書に本姓は美濃国加納城主長井氏とあるが,疑わしい。むしろ,京都にあって豊臣秀吉のもとで大判吹きに従っていた後藤徳乗弟子山崎庄三郎というのが正しいであろう。1593年(文禄2)秀吉からの下命をうけて徳川氏のために関東へ下ったが,これは,師家後藤四郎兵衛徳乗(光基)の養子となり,後藤家代々の名のり〈光〉の一字を許されて光次と称し,徳乗の名代として下ったものであった。95年武蔵墨書小判を造り,1600年(慶長5)から小判,一分金を造っている。かくて金座を主宰し,また家康から旨をうけて摂州平野の豪商末吉利方とともに銀座の設立を差配しているが,その聡明さと優れた力量が認められて側近にも奉仕するようになり,家康の政治,外交貿易などにも参画した。なお,庄三郎家は11代目庄三郎光包まで続いたが,1810年(文化7)に11代目の三宅島流罪によって一家断絶となった。
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朝日日本歴史人物事典 「後藤庄三郎」の解説

後藤庄三郎(初代)

没年:寛永2(1625)
生年:生年不詳
江戸初期,江戸幕府の金座主宰者。もと橋本姓,遠江(静岡県)出身で,天正大判を鋳造した後藤四郎兵衛徳乗の門人。文禄2(1593)年,徳川家康の要請で金銀御用のため後藤家名代として関東に下ることとなっていた徳乗の弟七良兵衛が病気のため,代わって庄三郎が名代を勤めることになり,後藤家の養子として一族に加えられ,そのときから庄三郎光次と名乗った。光次は同4年(一説では翌年),わが国最初の鋳造小判である武蔵墨書小判を,関八州の領国向け通用のため江戸で初鋳した。次いで小額金貨である,短冊型の一分金試作にとりかかり,小判についても広く,ひんぱんに通用できる極印打ちに改め,慶長5(1600)年,量目,品位とも一定ないわゆる慶長小判・一分判を大量に鋳造,発行させた。翌年には末吉勘兵衛と共に銀座を設立し,徳川氏の金銀貨を全国貨幣として流通させるため,指導性を発揮した。また,光次は家康の厚い信任を得て,その側近のひとりとして幕府財政にも深くかかわり,朱印状の発給や,外交交渉にも他の重臣と共に関与するなどした。大坂夏の陣(1615)のあとは眼病を得,隠居して庄右衛門と称した。 金座主宰者としての職はその後も庄三郎家が代々継承したが,金貨への極印は幕末まで初代の光次名で打たれた。ただし,11代光包のとき,金包方に不正が発覚し,文化7(1810)年伊豆三宅島に流罪となって,200年余続いた同家は絶家となった。<参考文献>日本銀行調査局編『図録日本の貨幣』2巻,3巻

(岩橋勝)

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百科事典マイペディア 「後藤庄三郎」の意味・わかりやすい解説

後藤庄三郎【ごとうしょうざぶろう】

江戸幕府金座の主宰者(御金改役(おかねあらためやく))。初代光次(みつつぐ)〔1571-1625〕以後代々庄三郎を名乗り御金改役を世襲,幕府御用達町人の上座を占めた。初代は本姓美濃(みの)国加納(かのう)城主長井氏というが,疑わしい。豊臣秀吉のもと京都で大判を吹いていた後藤徳乗(とくじょう)(光基)の弟子山崎庄三郎と思われる。1593年秀吉の下命をうけ徳乗の名代(養子となる)として徳川家康のために関東へ下った。1595年武蔵墨書小判,1600年から小判一分金を造り,また摂州(せっしゅう)平野の豪商末吉利方とともに銀座の設立を差配。その聡明さと力量が認められ家康の側近となり,政治,外交,貿易などにも参画。庄三郎家は11代目庄三郎光包(みつかね)まで続いたが,1810年光包が三宅島に流罪となり断絶。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「後藤庄三郎」の解説

後藤庄三郎
ごとうしょうざぶろう

江戸時代,代々幕府金座(きんざ)の頭人,御金改役を勤めた後藤家当主の世襲名。本姓は橋本氏。初代庄三郎光次は大判座の後藤徳乗の弟子で,のち養子となって江戸に下り金座の主宰を命じられた。同時に銀座の設立にも尽くし,幕府御用達町人の上座を占めるようになった。11代光包(みつかね)は金包方に不正があり,1810年(文化7)伊豆三宅島へ流罪,庄三郎家は絶えた。跡役には初代庄三郎の養子の子孫で銀座年寄の後藤三右衛門孝之がついた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後藤庄三郎」の解説

後藤庄三郎(初代) ごとう-しょうざぶろう

1571-1625 織豊-江戸時代前期の御金改役(おかねあらためやく)。
元亀(げんき)2年生まれ。後藤徳乗の門人。後藤姓をゆるされ,徳乗の名代として徳川家康のもとで判金を鋳造。金貨などを鑑査する御金改役となって金座を統轄し,銀座の設立にも関与した。寛永2年7月22日死去。55歳。名は光次(みつつぐ)。本姓は橋本,山崎など諸説がある。著作に「駿府記」。

後藤庄三郎(2代) ごとう-しょうざぶろう

1606-1644 江戸時代前期の御金改役(おかねあらためやく)。
慶長11年6月24日生まれ。初代後藤庄三郎の子。寛永2年2代庄三郎をつぎ,幕府の金座・銀座などを統轄する。9年2代将軍徳川秀忠の死に際して出家し,宗家の大判座後藤家からむかえた養子良重に3代庄三郎をゆずった。寛永21年5月死去。39歳。名は広世。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「後藤庄三郎」の意味・わかりやすい解説

後藤庄三郎
ごとうしょうざぶろう

後藤光次

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世界大百科事典(旧版)内の後藤庄三郎の言及

【金座】より

…勘定奉行の支配下におかれていた。二分金,二朱金,一朱金,五両判などを造ったのは後代になってからで,金座といえば小判,一分金の検定極印(ごくいん)および包封をつかさどる江戸の後藤庄三郎役所のことであった。慶長の幣制(1601)成立の当時から日本橋本町一丁目(現在の日本銀行所在地)にあった。…

【小普請】より

…知行高に応じ,20俵以下は免除,20~50俵は金2分,50~100俵は金1両,100~500俵は100俵につき金1両2分,500俵以上は同金2両の割合で,扶持方もこれに準じ,閉門・塞(ひつそく)のものは免除された。小普請金は交代寄合を含む寄合からも徴収され,7月に3分の1,11月に3分の2を取立役人から元方金蔵に納めたが,1775年(安永4)以後直接後藤庄三郎役所が受け取った。1866年(慶応2)組支配は廃され海陸軍両奉行支配となったが,翌年留守居支配となった。…

【駿府記】より

…1611年(慶長16)8月1日から15年(元和1)12月29日までの約4年半に及ぶ。筆者は駿府在職中の後藤庄三郎(光次)か林道春(羅山)といわれるが不詳。1巻。…

※「後藤庄三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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