中国人民義勇軍(読み)チュウゴクジンミンギユウグン

デジタル大辞泉 「中国人民義勇軍」の意味・読み・例文・類語

ちゅうごく‐じんみんぎゆうぐん【中国人民義勇軍】

朝鮮戦争への参戦のため、中華人民共和国が1950年に中国人民解放軍から抽出・編成した部隊彭徳懐ほうとくかいが指揮した。正規軍である人民解放軍を投入すると、米軍主体とした国連軍との戦闘全面戦争に発展する恐れがあったため、名目上、中国国民による義勇軍である体裁をとった。中国人民志願軍

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改訂新版 世界大百科事典 「中国人民義勇軍」の意味・わかりやすい解説

中国人民義勇軍 (ちゅうごくじんみんぎゆうぐん)

中国語では中国人民志願軍という。抗米援朝のために組織された軍隊彭徳懐が指揮した。1950年6月朝鮮戦争が始まり,初め優勢であった朝鮮民主主義人民共和国軍は9月米軍の仁川上陸作戦で形勢逆転し,国連軍は10月8日,38度線を越え北上,20日には平壌を占領した。これに対し中国は国境に待機させていた第4野戦軍を中心とする精鋭を中国人民義勇(志願)軍として10月25日から国境を越えて進入させ,11月下旬西部戦線の清川江東部戦線長津湖の戦で米第8軍を中心とする国連軍主力を包囲し,得意の人海戦術で徹底的に撃滅した。敗走した国連軍は,米第8軍司令官ウォーカー中将が事故で死亡する混乱ぶりで38度線南方まで退却,中朝連合の共産軍は51年1月4日,ソウルを再占領した。その後国連軍の反撃で38度線付近の山岳地帯まで後退。ここで堅固な防衛線を敷いての陣地戦となった。国連軍が米軍を主とし,司令官もアメリカ人,板門店の停戦交渉でも米軍人が首席であったのに対し,中国人民義勇軍は朝鮮民主主義人民共和国軍総司令部の指揮下に入り,停戦交渉にも中国人は代表5人のうち1人だけであった。53年7月休戦協定が成立したが,武器装備で圧倒的に優勢な米軍を相手に互角に渡り合ったことは,新生中国の実力を示すものとして世界を驚かせた。停戦後53-54年に人民義勇軍は約半数が,58年10月には全員が引き揚げた。人民義勇軍の兵力は西側推定では75万~100万人,中国側情報では約50万人であった。
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