日本の中等教育機関である中学校で学習する生徒をいう。本項では、第二次世界大戦前までの旧制中学校男子生徒の風俗的変遷を中心にたどり、最後に戦後の中学生の体格の変化を述べる。1872年(明治5)の学制における中学生は、「中学ハ小学ヲ終タル生徒ニ普通ノ学科ヲ教ル所ナリ」とあって、旧制高等学校、旧制大学への進学を目的とした。
[西根和雄]
生徒の制服が軍服を範型とし一定化されたのは、明治20年代であった。したがって、それ以前では、校章のついた制帽ぐらいが決められていただけで、服装は比較的自由であり、着物姿が多く、普通の所持品としては、手拭(てぬぐい)、草鞋(わらじ)、下駄(げた)、鼻緒、草履(ぞうり)、櫛(くし)、鏡などであった。しかし、明治30年代中ごろの都市の中学生の制服には、上衣(生地(きじ)は縞小倉織(しまこくらおり)、ジャケット形紐付(ひもつき))、下衣(生地は上衣に同じ)、靴(形状随意)、外套(がいとう)やマント(生地は羅紗(らしゃ)、裏黒)、帽子(生地は紺羅紗、独逸(ドイツ)軍帽型)などがみられた。そして、明治30年代も終わりになると、地方でも、ほとんどの中学校で洋服が着用されるようになってきた。広い意味での学用品に類するものは、明治10年代で、小筆、石筆(せきひつ)、延紙(のべがみ)、罫紙(けいし)、真書筆(しんしょふで)、雁皮紙(がんぴし)、洋紙、ペン、書翰(しょかん)袋などであったが、まだ、鉛筆、消しゴム、インキ、雑記帳は一般的ではなかった。それが、1905年(明治38)ころになると雑記帳、鉛筆、洋罫紙、洋筋紙、木炭画用紙、画用紙、用器画用紙、美濃紙(みのがみ)などいろいろな用紙をもち、さらにペン、インキ瓶や水彩絵の具などが中学生に使われ始めた。
[西根和雄]
大正初期では、服装は全国的にほぼ平均化され、たとえば、広島第一中学校生徒(現国泰寺(こくたいじ)高等学校)の服装は、簡素な兵隊式のドイツ帽に、ゴシック体の「中」の帽章、夏服は浅黄(あさぎ)の小倉織、冬服はやや黒ずんだ色でサージの裏付き、それに脚には白い脚絆(きゃはん)をつけ、牛皮の兵隊靴といったものであった。ところが1932年(昭和7)ころには、黒に茶の混じった霜降りの詰め襟服、ズボンにはボタンで留めるようになった白脚絆をつけ、靴底にスピーを回し、尾錠(びじょう)で脚絆の下端を留めていた。靴は裏革中深の兵隊靴を用いた。ズボンには脇(わき)ポケットがなく手が突っ込めないように縫い合わされていた。ズボンのポケットに両手を入れて歩くと、姿勢が悪くなるからという配慮もあった。帽子には、周囲の中央に1本のひだがとってあり、銀色に光る「中」の徽章(きしょう)をつけ、夏には白覆(しろおおい)をつけた。この制服で風呂敷(ふろしき)に教科書、ノート、筆記用具を包み、小わきに抱えて登校した。しかし、やがて風呂敷包みにかわって布製の手提げ、肩掛けカバンなどに学用品を入れて登校する姿がみられ、詰め襟の制服、制帽、肩掛けカバンの中学生が一般的になった。
[西根和雄]
1937年日中戦争の戦時体制下に入った翌年6月、文部省は「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」の通牒(つうちょう)を発した。それにより、中等学校以上で夏季休暇の前後などに3~5日の勤労作業が始まった。それは、主として軍需生産の作業や農家での田植、稲刈り、麻の葉打ち、麻の皮はぎなどの作業に従事するものであった。1940年4月、広島県加計(かけ)中学校(現加計高等学校)に入学した男子生徒の制服は、折り襟で綿・スフ(ステープルファイバー、人造短繊維)混紡のものであったが、材質はかなりしっかりしていた。制帽は、もう色がそろわず黒ないし国防色(カーキ色)の2通りとなった。ズボンには、夏冬通してゲートルを巻き、編上げ靴を履くのを決まりとした。翌年12月には太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)するが、制服はラミー(麻の一種)とスフの混紡となり、国防色に変わった。また、制帽が消え戦闘帽をかぶった。既にこの年8月には、文部省は学校報国隊の編成を訓令し、軍事的要請に従って学徒を勤労作業に動員しうる体制をつくった。
1943年6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学徒の戦時動員体制(学徒動員)が確立された。1944年7月、文部省は「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒し、これを契機として、全国的な中等学校生徒(第3学年以上)の軍需工場への勤労動員が開始された。1945年になると、中学校の修学期間は、5年制から1年短縮された4年制に変更され、1年生までも建物疎開作業に動員されるようになった。広島第一中学校生徒の場合、この作業に従事しているときに原子爆弾の炸裂(さくれつ)に遭遇し、多くの犠牲者を出した。
第二次世界大戦後の中学校は1947年(昭和22)に、そのほとんどが新制高等学校に改編された。
[西根和雄]
中学3年生の身長と体重については、20世紀初め以降、男女とも順調に伸びてきた。とくに第二次世界大戦後はすべての年齢で男女とも平均身長・体重ともに伸び増えていることが文部省(現文部科学省)の「学校保健統計調査」などによって明らかとなっているが、その差がもっとも大きいのが中学校段階である。
1969年(昭和44)から1999年(平成11)までの30年間の推移をみてみると、1969年当時の同年齢(すなわち親の世代)と比較して、平均身長は男子で5.5センチメートル、女子で3センチメートル伸び、平均体重は男子で6.2キログラム、女子で2.9キログラム増えている。さらに著しい伸びを示しているのが身長から座高を引いた下肢長で、男子3.2センチメートル、女子で2.4センチメートル長くなっている。この30年間で日本の中学生は、より長脚長身の体格へと移行したといえる。
しかし、2008年の『平成20年度学校保健統計調査報告書』によると、1999年から2008年までの10年間の推移をみると、中学生の平均身長は、男子で0.3センチメートル、女子で0.1センチメートル低くなり、平均体重は、男子で0.5キログラム、女子で0.7キログラム軽くなっている。また、下肢の長さも、男子で0.2センチメートル、女子で0.1センチメートル短くなっている。
[西根和雄]
『渋沢敬三編『明治文化史第12巻 生活』(1979・原書房)』▽『唐澤富太郎著『図説明治百年の児童史 下』(1968・講談社)』▽『国立教育研究所編『日本近代教育百年史第5巻 学校教育 三』(1974・財団法人教育研究振興会)』▽『広島県立広島国泰寺高等学校百年史編集委員会編・刊『広島一中国泰寺高百年史』(1977)』▽『広島県立加計高等学校創立五十周年記念誌編集委員会編・刊『創立五十周年記念誌』(1979)』▽『文部科学省編著『平成20年度学校保健統計調査報告書』(2009・日経印刷)』
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