各国の正規の軍隊は,敵の軍人や一般住民とみずからを容易に識別するため,また組織の秩序維持・機能確保などから,階級,兵種,兵科等を直ちに識別しうる軍服や階級章,徽章(きしよう)類の制式と着用要領を定めている。
国際法上,軍服の着用および軍服の範囲が問題となるのは,戦闘員の〈交戦資格〉との関係である。正規の戦闘員として交戦資格を認知されるということは,捕虜となった場合,国際法によって保護される権利を有するということである。〈捕虜の待遇に関する1949年のジュネーブ条約〉では,その条件の一つとして,〈遠方から認識することができる固着の特殊標章を有すること〉があげられている。これは必ずしも正規の軍服のみを指すのではない。この条項は,正規の軍服を着用していない義勇隊,民兵隊など,パルチザンやゲリラの戦闘員が捕虜として国際法の適用を受けることができる資格を規定する条項の一つであり,正規軍どうしの交戦に限定されず,一般住民の組織的抵抗運動と,これに対する正規軍の無制限の報復を含む近代戦の国際的経験に基づいたものである。しかし,この条項の範囲をめぐっては,現在でも,戦争当事者間に論争があり(たとえばパレスティナ・ゲリラについて),〈固着の特殊標章〉を一義的に規定することは困難である。
各国の正規の軍隊の軍服は,戦闘用と儀礼用に大別される。戦闘用は機能的で実用本位に作られており,とくに陸軍の戦闘服では作戦地域の環境にあう保護色を重視してカーキ色やオリーブ・ダーク色が採用されている。儀礼用には通常着用する制服と儀礼服があり,儀礼服は伝統的なものが多い。海軍の軍服は水兵服のように各国に共通したものが多い。
執筆者:編集部
敵・味方を区別し,またそれぞれの陣営内で階級,身分を区別するものとしての軍服はその目的からいえば,古代からすでに一様化へ向かう萌芽をもっていた。たとえば古代ローマでは,その戦闘方式から同じ武器と楯,肩にかける外衣も同じに揃えた軍団が誕生した。これらは量産され,国家から支給されたものであった。また13世紀の十字軍は鎖帷子(かたびら)の上に,各騎士団の十字の紋章をつけたシュルコを着て目印とした。15世紀の〈ばら戦争〉では,ヨーク家とランカスター家のそれぞれのバラの紋章が,日本の陣羽織にあたるタバードtabardにつけられていたという。そのころから染色技術の発達で布を大量に染められるようになり,召使や兵士の衣服の制服化がすすんだ。
→甲冑(かっちゅう)
16~17世紀の銃砲の発達はそれまでの戦法を変革した。総甲冑は衰退し,戦場では胴鎧だけを重騎兵,槍騎兵または全軍の上級将校がつけ,銃兵,砲兵はせいぜいなめし革の外衣をつけるかつけないかの身軽さになった。三十年戦争(1618-48)に,スウェーデンのグスタブ2世の軍は歩騎砲併用の三兵戦術によって全交戦国の模範となり,その服色から呼ばれた赤・青・黄連隊は戦場服のユニフォーム化に向かう第一歩となった。同じころルイ14世の親衛隊に制服ができ,また1644年イギリスのクロムウェルは,議会軍にエビの殻状の首おおいがついたヘルメットと緋色の軍服を採用し,その兵は〈エビ兵〉とあだ名された。王室の護衛兵はどこの国でも目だってぜいたくな服を,らっぱ手と鼓手は特別に鮮明な色彩の服を与えられた。17世紀の後半,戦争の舞台は東部ヨーロッパに転じ,スラブ側の一軍として戦った勇猛なハンガリーやポーランド騎兵の民族服は中部ヨーロッパで模倣され,後年,胸に飾りひもをつけたいわゆる肋骨服となった。その騎兵スタイルは第1次世界大戦直前まで一般にももてはやされた。17世紀末にフランスをはじめとして大規模な常備軍が作られ,同じ軍団内の異なる連隊は,袖口や襟の折返しと組ひも飾りの色,ボタンの数や位置等で区別され,それらは連隊内の兵士の団結心を強めた。18世紀から19世紀にかけて色鮮やかな軍服は,君主の権威を示す査閲や儀式に華やかさを加えるだけでなく,戦場においてこそ必要であった。火砲は黒色火薬なので会戦では煙と濛気(もうき)が立ちこめる。通信兵器はない時代なので,指揮官は作戦を立て命令を下すために刻々と変わる味方の動静をはっきり視認しなければならない。服装の色は士気高揚のためというより戦術にかかわることだった。戦場でいつも戦列と離れた位置につく砲兵はおおむね暗色の軍服を採用した。
軍服は当時その派手な色彩は別として一般市民の衣服と大差がなかったが,連隊内のさまざまな階級を見分けるため,フランスは1762年に肩章を定め,1800年ころには他国にもひろがった。帽子はつばのひろいフェルト帽で,17世紀の銃士は小銃操作のため一方を折り上げ,18世紀には三方を折り上げて三角帽(トリコルヌ)となり,同世紀末から次代にかけて二角帽(ビコルヌ)となる。変り形の軍帽には擲弾(てきだん)兵の司教冠帽,熊毛皮帽など種々の帽子があった。ナポレオン時代はローマ趣味に傾倒した時期で,竜騎兵はローマの兜を再生させた。歩兵は詰襟燕尾服と白いぴったりしたズボン,白革の装具を肩から交差してかけ,膝上まである脚絆をつけ,銃を持ち背のうを背負う。帽子はみな高くなり,それを羽根や金属の銘板やモールひもで豪華に飾りたてた。ナポレオン軍は征服地の多種多様な伝統的軍服を包含し,絢爛(けんらん)たるものであった。一方,ナポレオン政体に対する抵抗運動はドイツの大学で成長し,1810年前後に決起した義勇軍は簡素な黒い詰襟学生服をそのまま軍服とし黒軍団と呼ばれた。またドイツでは,装飾過剰の重い軍帽の代りに平らなひさしのない帽子を野戦で使い,このタイプの帽子はのちにひさしをつけて世界中にひろがる。軍国主義のプロイセンで軍服はいっそう華美で儀礼的なものとなり,軍隊特有の伝統と制度の中で発達して,一般の流行から離れたものとなった。1840年ころに現れた陸軍服の原型が1914年まで基礎になるのはそのためである。
19世紀前半の雷管銃,後装銃出現以来,軍服はくすんだ色となり,軽量化が軍服制定上のルールになった。1870年の普仏戦争は,きらびやかな軍服に終止符を打ち,80年代の無煙火薬の軍用制式化は戦場の服装を保護色に向かわせる要因となった。19世紀の中ごろイギリスのインド駐屯軍がカーキ色を初めて着用し,この保護色はボーア戦争(1899-1902)で効力を発揮して,イギリス陸軍の,儀式を除くすべての軍服に採用された。第1次世界大戦(1914-18)で各国は兵士の服装を目だたぬような色に制定し,衣服のボタンは光らぬよう酸化させ,革製の装具は白をやめて黒か茶になり,兵科は襟の小さなあて布の色で区別した。砲の射程はのび,1人の兵が携帯する小銃弾薬の量は増え,戦場では鉄兜を必需品とし,鉄兜の下にかぶることのできる柔らかい小型の野戦帽がくふうされた。兵士の足ごしらえは多くの国で巻きゲートルへ変わっていった。前線では毒ガスが使用されて,ガスマスクが装具に加わり,塹壕(ざんごう)戦ではゴム長靴,トレンチコート,皮製の上衣,防水帽などが用いられ,それらは戦後の一般服装に影響を与えた。飛行機と戦車は画期的な兵器で,それぞれに適した搭乗服を必要とした。陸軍軍服は立襟(ミリタリー・カラー)が主であったが,この大戦前後にほとんどの国が折襟にとりかえた。
第2次世界大戦(1939-45)開戦初頭では,ドイツの電撃作戦が灰色軍服と長靴というスタイルで展開し,これ以後,他の多くの国々でも緑がかったカーキ色,白っぽい砂色,黒っぽい緑など,完全な保護色を用いた。迷彩服は地上の近接戦をおこなう部隊や奇襲部隊で着用され,冬の東部戦線では雪上衣が使われた。ソビエト軍はルバシカ風の戦闘服,アメリカは種々のジャンパー類,イギリスはサファリ・スーツ式の上衣を戦場に持ち込んだ。巻きゲートルの足ごしらえは減少し,足首の長い編上靴と長靴がヨーロッパの戦場で〈はば〉をきかす。戦車兵はイギリスもドイツもベレー帽で,これは車両内でその上にヘルメットをかぶるのにつごうがよいからである。落下傘兵は特殊なジャンプ・スーツを着た。戦中戦後に通常勤務服はほとんどの国が背広型折襟にネクタイを結ぶ形になり,一般社会の流行にそった。
海軍は平時に他国の港に出入して国際性が強いことと,国が違っても同じ特殊技術者集団としての共感があるためか,服装の基本は同一である。イギリスは1588年にスペインの無敵艦隊を破って大海軍国となり,服装の面でも世界中に影響を及ぼした。同海軍はその建設期から士官は貴族階級,兵は庶民階級という身分制度をもったので,服装はこれに則し,今もその伝統は士官服と水兵服の差に残っている。海軍は最少の戦闘単位が1人の人間ではなく1隻の軍艦なので,敵・味方を識別する派手な制服を必要とせず,統一した服すら必ずしも必要ではなかった。海軍士官の服装は長い間陸軍に迎合する傾向にあったが,イギリスは1748年に独自の海軍士官服の勅許を得た。それは当時の上流社会で常用した形で,青い上衣に袖と襟の折返しがあり,金モールの飾りをつけ,下衣は白ズボンという軍服である。トラファルガー海戦の時も,水兵の制服はまだなかったが,全体によく似たかっこうをしていた。長い航海中,衣服の入手は主計長の倉庫の品に限られていたため,自然に統一されてきたので,イギリス海軍はそれらの品の中から紺色の短い上着(ラウンド・ジャケット)といわゆるセーラー服を下士卒の制服に定めた。アメリカでは1813年に水兵服が制定された。ブルー・ジャケットといえば19世紀の英米では水兵の代名詞であった。海軍士官服はいつも同時代の市民服の影響を強く受けていた。ネルソンの燕尾の軍服はその時代の紳士の服装であり,フロックコートの全盛期にはそれが士官の勤務服でもあった。背広が流行する時代には金ボタンのダブルの背広型が常服である。例外は19世紀後期にアメリカ海軍が使いはじめ,イタリアと日本が追随した紺の立襟長ジャケット型士官服である。服装変遷の中では,ある時代の仕事着が次に外出着になり,その次には礼服に押し上げられるという現象があり,海軍士官服にこれはとくに顕著で,19世紀初期の二角帽と燕尾服は第2次世界大戦の勃発まで大礼服として生きつづけた。海軍士官は多種類の服を持つ規則で,1880年ころから1940年ころまでの欧米では,大礼服-立襟燕尾服,夜会服-折襟燕尾服,礼服-正肩章付きフロックコート,通常礼服-フロックコート,軍服-ダブルの背広型,夏服-白色立襟長ジャケットで,このほかに作業服がある。士官軍帽はひさし付きの円形帽である。下士官は19世紀の末までは水兵服装だが,イギリスでは1879年に詰襟の下士官服を制定した。背広型を採った年代や国または兵科もある。海軍服は特別な作業服を除いて黒に近い紺(ネービー・ブルー)と白が基本色になっている。作業服にはオーバーオールズ,特殊被服としては航空服,防水服,救命胴衣等が開発されつづけた。海兵隊は創設以来の伝統で,服装はおおむね陸軍式である。
第1次世界大戦で新兵器として活躍した飛行機は,初め陸海軍に所属したが,順次に空軍として独立した。イギリス空軍は最も早く1918年に創設され,明るい青色の制服を定めたがすぐにそれを青みがかった灰色にとりかえた。これは世界の空軍服のモデルとなり,第2次世界大戦前後にひろく模倣されたが,1934年に独立したフランス空軍のように,自国の海軍服に準じた型を採ることも多かった。陸軍服または陸軍型の服を制定した空軍は,ほとんどが襟章や袖章の兵科色として青や空色を採り上げた。空軍の戦闘服としては飛行服があった。
日本で軍服と呼べる服装が現れるのは,近代の洋式陸海軍伝習以後のことである。近世までの甲冑時代にも,たとえば武将の家紋を小切にかいて兜の錣(しころ)や袖につける笠印,袖印が盛んであった。また各藩ごとに合印(あいじるし)を描いた揃いの具足,陣笠をつけ,揃いの背旗を指し戦場での姿を統一した。彦根藩井伊家の赤備(あかぞなえ)はとくに名高い。
幕末に入り欧米の砲艦外交による開国談判は,洋式軍備の必要を痛感させた。幕府はじめ諸藩でオランダ式調練を開始すると,小銃操作に鎧兜はじゃまなばかりで鎧下着の筒袖陣股引が軍服となった。維新戦争の間,陣股引はだん(段)袋と呼ばれ,兵士は韮山笠や陣笠,士官は自分の紋を入れた陣羽織や筒袖の野羽織を着て,陣笠をかぶった。1867年(慶応3)にフランス式伝習を受けた幕府陸軍の3大隊は純フランス式軍服を着用した。68年(明治1),肩に錦切(きんぎれ)をつけて江戸へ向かった官軍の中には,赤熊(しやぐま),白熊(はぐま),黒熊(こぐま)と称してヤクの毛をかぶった者もある。諸藩士は開港地で売るラシャ(羅紗)地の中古洋服を求めて戦闘服とした。これが日本人の洋服を常用する始まりとなるが,商人用の衣服や階級にあわない軍服または和洋混合の着装の混乱状態を終わらせたのは,70年以降の勅令による軍服制定であった。陸軍はフランス式と布告し,歩騎砲三兵の軍服の基準を諸藩に示し,翌年御親兵(近衛兵)の軍服を発表した。この年廃藩置県を断行して兵制統一がなり,鎮台兵を置く。73年徴兵制度を実施し,服制はさらにフランス式に整備される。この時の服制から後年長く使用したものを抜き書きすると,将校用正帽前面の金属の日章と正帽の頂上に縫いつけた金線の星形であり,立襟ダブルボタンの半マンテルの正服は,デザインの基本はそのままに時代にあった裁断法に改めて,大礼用として1938年まで続く。将校軍衣の黒い肋骨服と近衛兵正帽の赤色は1908年まで続き,士官・下士官・兵全員の略帽の金属の星章は,まもなく陸軍を象徴することになる。兵科色の中で,歩兵-赤,砲兵-黄,騎兵-萌葱(もえぎ)は最後まで変わらない。サーベル,剣帯,飾緒,脚絆,短靴・工兵靴・長靴の3種類の靴をも定めた。日本の洋靴製造の始めは軍靴で,1868年に兵部省が勧めて西村勝三に着手させた。だが靴をはく慣習がなかったことと製造技術の未熟さから,行軍では足を痛め,西南戦争(1877),日清戦争(1894-95)では多くの人がわらじにはきかえた。軍服のラシャ地は輸入品に頼っていたが,官営千住製絨(せいじゆう)所が1880年に操業開始して,国産品使用が可能になった。
普仏戦争後ヨーロッパの陸軍を主導していたプロイセン陸軍に日本も傾倒し,1886年に鎮台を廃止して師団編成とし,操典も服装もプロイセン式を採り入れた。下士卒の帽子は革製の硬い正帽とラシャの軍帽の2種類,衣服はボタン留めの短上衣だけの1種類。上衣の襟につく識別色はこのときに工兵-とび色,輜重(しちよう)兵-藍が追加制定された。肩章には連隊番号,階級表示は袖の線である。将校の夏服は白い肋骨服,下士卒でも騎兵だけは肋骨服で,あかね色のズボンに長靴をはいた姿は,ドイツ驃騎兵の模倣であった。日清戦争で初出する士官の戦地服は,黒い学生服と似た簡素な服で,これは日露戦争(1904-05)でも使われた。日本が連合軍の一翼を担った北清事変(1900)は夏の戦いで,白い軍服はねらわれやすく汚れやすく,カーキ色を使った国が多く,日本も現地駐屯軍に限ってこの色の衣服を支給したが,内地では知る人が少なかった。日露戦争開戦初頭,日本軍は黒い軍服で出征したが,満州の大地に見合ったカーキ服は,最初白色の夏衣の代りに,次に黒の軍服,肋骨服,戦地服の上にも着用された。そしてこの時期,防寒用毛布製外套(がいとう)やフェルト製長靴,毛皮胴着ができ,マラリア除けの防蚊覆面,編上靴と巻きゲートルが登場する。戦争後半に戦時服服制として成文化したカーキ色の衣服は1906年に正規の軍服となり,日本陸軍は通常勤務服と野戦服を一つのスタイルで兼用することにした。襟の兵科色は,憲兵-黒,軍楽-紺青,衛生・獣医-深緑,経理-銀茶とし,肩章は赤い台地に星と線の数で階級を示した。シベリア出兵(1918-25)の厳寒地の戦闘は,重装備の防寒服を作製させたが,その重量は,兵士の命取りともなった。満州事変で大量に使用した鉄兜は,その下にかぶれる軽い布の帽子を必要とし,日中戦争勃発(1937)の翌年に戦闘帽を制定する。同時に詰襟の軍服を開襟にもできる折襟に改め,肩章をやめて襟章とし,襟の兵科識別は胸の山形線にとりかえた。1934年に軍刀はサーベルを廃止して日本古来の陣太刀造りとし,将校長靴は黒から茶に変わる。礼服は戦時中は着用停止になる。第1次大戦に出現した新兵器は,その後の性能の進歩とともに戦車兵がかぶる硬製の防御帽とつなぎ服の戦車搭乗服や飛行服,ガスマスク等の特殊被服の開発を要求した。革底鋲打ちの軍靴は音が高く敵に察知されやすく市街戦に不向きなので,地下足袋が便利に使われ,ゴム底軍靴も作られた。1941年に始まる太平洋戦争では,軍服の色はジャングル戦を想定した暗緑味の強い茶褐色となり,開襟シャツや防暑帽が多用された。兵科の表示は廃止し,戦局の逼迫(ひつぱく)で粗悪なスフ入り軍服を着て陸軍は敗戦を迎えた。陸海軍とも士官の礼服・軍服は自前(特殊被服を除く),下士官・兵は官給であった。
日本の海軍服は幕末の洋式海軍建設のなかで作られた。それまでの水軍の武者は甲冑をつけ,地上での戦いとさほど変わらぬ姿であった。鎖国政策をとった江戸幕府は大船建造を禁じ,幕府の船手組というのは旧式の水軍ですらなかった。だが欧米の軍艦来航以来,海防の重要性が認識され,オランダ海軍伝習が開始される。1861年(文久1)の幕府のお触書で,海軍士官は艦内に限って革靴をはくのを許され,それを手始めに洋風化が進み,日本で最初に洋服一式を着こなしたのはおそらく海軍士官であろう。68年,箱(函)館五稜郭に拠った榎本武揚以下の人々は,袖に金線を巻いたフロックコートに蝶ネクタイ,帽章はのちに抱茗荷(だきみようが)と俗称するところの,錨と桜花を桜葉で抱いた紋章をつけていた。維新政府は70年に海軍はイギリス式と布告し,服装もイギリス式だが,士官帽前章は幕府海軍のものを踏襲し,礼服の襟の金鏽は日本らしく桜の花葉と錨をアレンジし,イギリスでは∨形の善行章を∧形に変えた。76年まで存在した海兵隊もイギリス海軍を模し,その楽隊の赤い上衣は軍楽隊の礼装に長く残っていた。
海軍士官は西欧の例に準じて数種の服を使い分けた。大礼服は三日月形の大礼帽と金のエポーレット(正肩章)をつけた立襟燕尾服,金線と識別線入りの剣帯,長剣の一揃で1873年に定め,小改正を経ながら1938年まで,皇居へ参内する時や祝日,そして自家の賀儀葬祭など重い行事に着用した。着る機会の少ない夜会服は1893年に廃止した。通常勤務の軍服は初めフロックコートであったがエポーレットをつけて礼服とし,1904年に軍服は長ジャケットの略服となり,フロックコートは通常礼装になった。略服は最初背広型であったが,1887年に黒蛇腹ひもの縁取りをつけた立襟長ジャケットに改め,この簡素な服は日清戦争後に通常軍服,日露戦争で軍服となり日本海軍の終焉(しゆうえん)まで続けられた。夏服は白色の立襟長ジャケットで,初めは紺の軍服と同じ鉤(かぎ)ホック留め,1900年に金ボタン留めとなり肩章がつけられる。礼装には大礼帽,通常軍服・軍服にはひさし付き円形帽を組み合わせた。士官短剣の制定は1883年である。
明治初期の下士官・兵には,礼装用として水兵服の上に着る折襟の短ジャケットがあったが比較的早い時期に廃止された。下士官も初めは水兵服を着たが,1883年に一等兵曹はダブルの背広型礼服,90年に立襟金ボタン留長ジャケットの軍服を与えられ,その後1階級ずつこの下士官服にかわり,1907年から兵曹級全員が下士官服を着ることになる。下士官・兵の臂章(ひしよう)には,官職区別章,善行章,特技章がある。官職区別章はその職種で使う兵器や道具をシンボルマークにし,桜花と抱桜葉の増減で,階級と兵科を表示している。善行章はとくに良い行いをしなくても3年ごとに1本増加する。特技章は各種海軍学校の教程卒業者に与えられる。これらの臂章は,礼服には金糸刺繡,軍服には赤ラシャ,夏服には黒だったが,1930年に金繡は廃止された。軍艦の兵員がもっとも長時間着る服は,海軍で作業服という丈夫な綾木綿の作業衣で,本来これは襟も胴も共布地の水兵服なのだが,1890年から96年までと,1922年以降はセーラーカラーをやめ折襟にしている。汚れ作業用に通称煙管服というつなぎ服があり,機関兵や整備兵がこれを多く使った。前記の服は年代につれて多少変化したが基本は変わらない。日清・日露の海戦で,士官は紺の軍服,兵員は作業服のズボンの裾をひもで縛り,麻裏の紺足袋をはいた。上海事変の翌年(1933),褐青色で探検服式の陸戦隊服を定め,海軍内ではこれを俗に第三種軍装と呼んでいた。
1914年(大正3)以来,一種は紺の軍装,二種は白の夏服の一揃を指している。日中戦争勃発の翌年に儀礼服は戦時中着ないことにし,サーベルの代りに黒造り陣太刀ごしらえの軍刀を制定し,次に戦闘帽型で黒と白2種類の艦内帽を定めた。
41年太平洋戦争へ突入し,戦場が太平洋からインド洋へかけて広がると,半袖半ズボンの防暑服は,士官用の純白,官給品の淡茶色と濃い緑茶褐色が併用される。42年に下士官・兵官職区別章のシンボルマークをやめ,楯形の台地に兵科は小さな桜花の色分けで示し,士官の識別線は襟章の細い線だけに残った。戦局は航空戦で左右され搭乗員養成が急務となり,大勢の少年が予科練を志願し,彼らの誇りを満たすためいわゆる七つボタンの予科練服が生まれた。南方海域では防暑服が快適だが,海戦時に露出した手足は火傷が重くなる。戦訓により長袖長ズボンの服,士官は夏衣,兵は作業服に脚絆をつけるが,白色なので敵機の機銃掃射の目標になりやすく戦闘に不利であった。43年に海軍は,戦地勤務でつねに着ることができる陸戦隊服とよく似た略装を制定し,艦内帽も同じ褐青色にして略帽と称する。戦局が極度に悪化し,前線が本土に近づいた44年秋,略装を正式に第三種軍装とし,すべての海軍服の代りに着ることになる。それは戦時下服装の二重生活を精算し,艦船を喪失した海軍の総陸戦隊化の覚悟を表明したようにも受けとれる。そのころ,特攻は次々と出撃したが,水上特攻の〈震洋〉も水中特攻の〈回天〉も搭乗服は飛行服を使用した。
執筆者:太田 臨一郎+柳生 悦子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
正規軍人の着用する制服。外套(がいとう)、雨着、帽子、靴なども広義の軍服といえる。敵味方や非戦闘員との識別、軍隊団結の象徴などを目的とし、共通互換性、機能性、耐久性を重視する。
陸・海・空の各軍、将校・兵士などの階級身分、歩・騎・砲・工などの兵科、夏・冬・合(あい)の季節、寒帯・熱帯などの地域、通常勤務・特殊勤務などの作業、男女の性別、年齢などによってそれぞれ区分される。古くは日常用、戦闘用とも同一のものを用いたが、近代正規軍では儀礼用(正装)、日常用(軍装)、訓練・演習・戦闘に着用する戦闘用(略装)と区別するようになった。
[寺田近雄]
軍服に類する衣服は、軍隊の発生とともにあり、各種族、部族の支配者が自分の手兵に同一の服を支給し団結を誇示した記録は、ギリシア、ローマ、エジプト、メソポタミア、中国など文明発祥地に多くみられる。ただしこの場合は下級兵士や傭兵(ようへい)に限られ、指導者、貴族、隊長クラスは自弁の自由な服装である。また部族が異なると軍服も異なって、全軍的統一にはほど遠く、むしろ統一性は兵士たちの武具甲冑(かっちゅう)に求められ、それがユニホームとなっていた。
定説では、イギリスの王位継承戦「ばら戦争」(1455~85)で両軍がそれぞれ赤ばら、白ばらの記章をつけて戦った史実を軍服の発祥としている。1644年、イギリスのクロムウェルが議会派新模範軍に赤服を着用させ、また1670年、ルイ14世が国費をもって全軍統一の軍服(兵科による差はあり)を採用するなど、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各国の国民軍は制服を着用するようになった。これらはいずれも赤青黄緑などのはでな原色地に金銀の装飾を凝らした華美なデザインで、わが国の鎧兜(よろいかぶと)と同じく武人を男子の華とするもので、ナポレオン戦争の槍騎兵(そうきへい)、竜騎兵のファッションはその代表例である。
19世紀後半に入ると火器の急激な発達により、目だつ原色軍服は野戦に不利なため避けるようになった。南ア戦争(ブーア戦争)の際、インドから派遣されたイギリス軍がカーキkhaki(ヒンディー語で土ぼこりの意)色の軍服で迷彩効果をあげたので各国軍はこれに倣い、いずれも国土にあわせて濃緑、灰緑、黄褐、褐色などのじみな色の軍服を採用するようになった。
一方、海軍では、各国とも黒または紺色(夏服は白)を基礎に機能性を加味し、幹部はフロックコート、詰襟、背広型に変わり、兵士は俗にセーラー服とよばれる型に伝統化された。また20世紀に創設された空軍の制服は初めは陸軍と同じで、やがて空色背広型に定着した。
日本では1870年(明治3)国軍の統一とともに陸、海、海兵の服制を定め、陸軍はフランス、海軍はイギリスを模範として、将校と兵士をデザインで区別。階級、兵科は階級章、兵科章で表した。日露戦争後半から従来紺系統の布地が茶褐色となり、昭和に入ってドイツの影響で詰襟から折襟となった。陸軍は日常衣と戦闘衣は同型で、特殊被服として防寒衣、防暑衣、航空服、戦車服、防毒服など各種があった。海軍は建軍以来大きな変革はなく、第二次世界大戦後期に緑色の陸戦服が採用され、艦艇乗員もこれを着用した。
[寺田近雄]
『笹間良彦著『日本の軍装』(1970・雄山閣出版)』▽『太田臨一郎著『日本近代軍服史』(1972・雄山閣出版)』▽『斎藤忠直・穂積和夫著『世界の軍服』(1971・婦人画報社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…採用の直接の契機は,生徒の集団性の育成をめざして導入された兵式体操(軍事教練)実施上の服装としてであり,したがってその型式は,黒色の布地による詰襟・金ボタンの上衣と同布地のズボンという当時の陸軍下士官の戦闘服をモデルとしている。普及とともに紺色・ホック留めの海軍士官略装型の学生服も出現したが,いずれにせよ集団規律,職務への服従,地方民とは異なる選良性などの点で,軍服がモデルとして選びとられたのであった。日露戦争後,陸軍軍服は国防色(カーキ色)へと変わるが,学生服は一貫して当初の色・型を継承し続けた。…
… 制服のもたらす社会的機能としては,同一性,シンボル性,禁欲性の三つの要因が考えられる。同一性とは内部に対しては一体性を醸し出すと同時に,外部と自集団との区別として作用し,軍服は,戦場での敵・味方の識別機能と同時に,味方どうしの一体感(仲間意識)を強化する。しかも,これら制服は自分が所属している集団の象徴でもある。…
※「軍服」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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