中間市(読み)ナカマシ

デジタル大辞泉 「中間市」の意味・読み・例文・類語

なかま‐し【中間市】

中間

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「中間市」の解説

中間市
なかまし

面積:一五・九八平方キロ

福岡県の北部に位置し、東は北九州市八幡西やはたにし区、南から西は鞍手くらて郡鞍手町、西から北は遠賀おんが郡遠賀町、北は同郡水巻みずまき町に接する。市のほぼ中央部を遠賀川が北に向かって貫流し、市域を東西に二分している。川東の旧長津ながつ村地区は南東部に発達する丘陵が八幡西区との境界をなし、台地が多い。川西の旧底井野そこいの村地区では垣生はぶ地区の堤防沿いに低丘陵が連なるものの、鞍手・遠賀両郡一帯に開けた沖積平野の一部をなす。

〔原始・古代〕

縄文時代では宮田みやた遺跡(前期から晩期)などの遺跡が知られている。弥生時代では各種の磨製石器が垣生遺跡をはじめとする遠賀川河床の各遺跡で出土、なかでも下大隈しもおおくま遺跡は後期後半の土器型式命名地として知られる。墓地は鉄戈などが副葬されていたのぼたて遺跡(中期から後期)ひろ遺跡(中期から古墳時代)が低台地上にある。古墳時代では地質と関連して横穴群が密集する地で、装飾画のある瀬戸せと横穴群と線刻画のある垣生羅漢はぶらかん百穴が著名。古代律令制下では筑前遠賀おか郡に属した(ただし南端部の下大隈地区は近世には鞍手郡に属しており、遠賀川の流路変更などによって若干郡域に変動があったとみられる)。「和名抄」にみえる遠賀郡諸郷のうち埴生はぶ郷が当市垣生一帯に比定され、遠賀川を隔てた市域西部の大半が同郷に含まれていたと思われる。また宗像むなかた郷の比定地は未詳であるが、宗像郷を像宗郷の誤記として市内の小字片峯かたみねにあて、残る市域東部に比定する説もある。

〔中世〕

建久三年(一一九二)鎌倉幕府は羽生はぶ庄内にあった貞清(姓不詳)の所領を没収し、替わって宇都宮時員(時貞)を同庄の地頭職に補任した。地頭であった貞清の子息らが、宇佐宮式年遷宮における造宇佐宮課役を対捍したのがその停止の理由であった。鎌倉時代後期、現在の下大隈付近に比定される大隈村楠橋くすばし庄の一部としてみえ、山城醍醐寺僧により領家職が相伝されていた(醍醐寺文書)。南北朝期以降、市域一帯は山鹿庄に本拠を置く麻生氏の支配下に組込まれていくこととなった。至徳元年(一三八四)九月二七日の麻生義助知行目録写(麻生文書/南北朝遺文(九州編)五)によれば、当時は「中間郷内御立隈七町」のみが現市域における麻生氏の知行地であったが、それから六〇年余下った文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写(同文書/筑前麻生文書)によれば「三十町 岩瀬村」「八十町 埴生郷」「五十五町 中間郷」と知行地が拡大しており、両目録の比較から麻生氏による領域支配が、時代が下るにつれて着実に広がりをみせていた様子がうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中間市」の意味・わかりやすい解説

中間〔市〕
なかま

福岡県北部,遠賀川下流域にある市。北九州市の西に接する。 1958年市制。かつては米作が盛んであったが,1891年筑豊興業鉄道 (現 JR筑豊本線) の開通後は炭田開発が行われ,中鶴 (なかつる) ,新手 (あらて) ,岩崎,大隈 (おおくま) などの炭鉱が開鉱して人口が急増。しかし,1959年以後は炭鉱が相次いで閉山し,ボタ山が往時の面影を残している。現在は電機,金属,縫製などの工場があるが,筑豊電鉄が通じ,北九州市の住宅地として発展。遠賀川左岸の垣生 (はぶ) 公園には古墳群 (羅漢百穴) がある。面積 15.96km2。人口 4万0362(2020)。

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