埴生郷(読み)はにゆうごう

日本歴史地名大系 「埴生郷」の解説

埴生郷
はにゆうごう

和名抄」高山寺本には記載がなく、流布本にのみ「埴生」と記し訓を欠く。伊勢本は「坦生」と記す。温泉郡の西南端に位置し、東に立花たちばな郷、南に伊予郡余戸あまるべ郷、北に和気わけ姫原ひめばら高尾たかおの二郷があり、西は伊予灘に面していたと推定される。正安三年(一三〇一)一一月七日付の六波羅下知状(大山積神社文書)に、大祝職の越智安俊の子安胤と地頭代重明との間で「生郷三宅里卅四坪弐反」の地について紛争を起こして訴訟に及んだが、調停ができあがった旨を述べている。

埴生郷
はふごう

「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。高山寺本は「生郷」につくる。高山寺本・東急本に「反布」の訓があり、名博本はハニフと訓じる。郷名は埴(ハニ、粘土)産出地に由来するのであろう。比定地については、(一)藁科わらしな川流域の現静岡市小瀬戸こぜと付近とする説(駿国雑志)、(ニ)現静岡市の賤機しずはた山東麓(埴土を産出)にあたる北安東きたあんどう大岩おおいわなどの一帯とする説(大日本地名辞書)、(三)現静岡市春日かすが町・瓦場かわらば町付近とする説(旧版「静岡県史」)があるが、「和名抄」での川辺かわのべ郷と広伴ひろとも郷との間の記載順から考えると、(三)の説が妥当か。

埴生郷
はにゆうごう

「和名抄」所載の郷。比定地は現富加とみか羽生はにゆう地区とすることで諸説一致している。大宝二年(七〇二)の御野国戸籍(正倉院文書)の「加毛郡半布里」を継承した郷で、羽生から東接する夕田ゆうだにかけて四一坪の連続した条里遺構が検出され(岐阜県史)、また七世紀中頃から八世紀後半にかけての竪穴住居跡群も発掘されている。南方蜂屋はちや川流域の蜂屋鷹之巣たかのす(現美濃加茂市)にも条里遺構があるが、羽生地区の条里とは区別して考えられる。

埴生郷
はぶごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「和名抄」駿河国安倍あべ郡埴生郷の訓「反布」、下総国埴生郡の訓「波牟布」(いずれも東急本)によれば「はにゅう」と読むこともできるが、遺称地名の中間市垣生はぶに従い「はぶ」と読む。

埴生郷
はぶごう

現在の垣生はぶ付近に比定される中世の郷で、鎌倉時代初期の史料にみえる羽生庄を引継いだものか。室町期以降麻生氏の所領として確認することができる。文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写(麻生文書/筑前麻生文書)に内々帳面、公役の時の答分ともに「八十町 埴生郷」とみえる。

埴生郷
はにゆうごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、名博本などで埴生郡にハニフの訓を付している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報