久保田譲(読み)くぼたゆずる

精選版 日本国語大辞典 「久保田譲」の意味・読み・例文・類語

くぼた‐ゆずる【久保田譲】

  1. 教育家男爵但馬兵庫県豊岡出身慶応義塾に学び、文部省に入る。貴族院議員。第一次桂内閣文相となったが日露開戦を主張する七博士建白事件引責辞任。のち枢密顧問官などを歴任弘化四~昭和一一年(一八四七‐一九三六

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「久保田譲」の解説

久保田 譲
クボタ ユズル


肩書
枢密顧問官,文相

生年月日
弘化4年5月(1847年)

出身地
兵庫県

学歴
慶応義塾卒

経歴
明治5年文部省権中録、以来大書記官、広島師範学校長、文部省会計局長、普通学務局長、文部次官などを経て、36年第1次桂太郎内閣の文相となった。39年戸水事件で引責辞職。高等教育改革を中心とする学制改革を構想し臨時教育会議副総裁を務めた。のち枢密顧問官、昭和9年宗秩寮審議官、議定官を歴任。男爵。著書に「教育制度改革論」。

没年月日
昭和11年4月14日

家族
長男=久保田 敬一(鉄道省次官)

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20世紀日本人名事典 「久保田譲」の解説

久保田 譲
クボタ ユズル

明治・大正期の教育行政家,男爵 枢密顧問官;文相。



生年
弘化4年5月(1847年)

没年
昭和11(1936)年4月14日

出身地
兵庫県

学歴〔年〕
慶応義塾卒

経歴
明治5年文部省権中録、以来大書記官、広島師範学校長、文部省会計局長、普通学務局長、文部次官などを経て、36年第1次桂太郎内閣の文相となった。39年戸水事件で引責辞職。高等教育改革を中心とする学制改革を構想し臨時教育会議副総裁を務めた。のち枢密顧問官、昭和9年宗秩寮審議官、議定官を歴任。男爵。著書に「教育制度改革論」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「久保田譲」の意味・わかりやすい解説

久保田譲
くぼたゆずる

[生]弘化4(1847).5.10. 但馬,豊岡
[没]1936.4.14. 東京
教育行政家。男爵。豊岡藩士の家に生れる。 1872年文部省に入り,普通学務局長,文部次官などを歴任し,文教関係の諸法令の制定,実施に参画した。 93年,文部省を離れてからは民間の学制改革運動の中心的人物となり,99年には学制改革同志会の学制改革案づくりに主導的な役割を果した。 1903年文部大臣に就任,改革の実現に尽力したが,05年東大七博士事件で引責辞任。その後も教育制度の改革に尽力し,17年臨時教育会議副総裁,19年臨時教育委員会会長に就任した。著書に『教育制度改革論』 (1899) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「久保田譲」の解説

久保田譲 くぼた-ゆずる

1847-1936 明治-大正時代官僚,政治家。
弘化(こうか)4年5月10日生まれ。明治5年文部省にはいり,学制の整備・改革をはかる。文部次官をへて,第1次桂内閣の文相。38年日露戦争の講和交渉を批判した東京帝大教授戸水寛人(とみず-ひろんど)を休職処分にした事件で引責辞職(戸水事件)。貴族院議員。昭和11年4月14日死去。90歳。但馬(たじま)(兵庫県)出身。

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