日本大百科全書(ニッポニカ) 「戸水事件」の意味・わかりやすい解説
戸水事件
とみずじけん
七博士建白事件に関連して起きた大学教授の人事をめぐる最初の大きな紛争。対露強硬外交・即時開戦論を主張して日露開戦の世論喚起を行った東京帝大教授戸水寛人(ひろんど)ら七博士は、やがて旧国民同盟会系の運動に加わり、日露講和条約の締結反対を強く主張するなど積極的に政治活動を行った。そのため政府は、その中心の戸水を、「文官分限令」第11条4項の「官庁事務ノ都合ニ依(よ)リ必要ナルトキ」休職を命ずることができる、との規定により1905年(明治38)8月25日に休職処分にした。時の総長山川健次郎も責任を負い12月2日に辞職、後任総長には松井直吉が任命された。しかし全学の教授は強く結束して山川総長と戸水教授の復職を求めるとともに、逆に久保田譲(ゆずる)文相の辞職を要求した。京都帝大法科大学教授陣も同調して、文相に対する抗議行動を展開した。その結果12月14日文相が辞職、翌年1月29日に戸水の復職が実現し、大学側が勝利した。事件そのものの発端は戸水らの帝国主義思想と行動にあったが、政府による人事の干渉を排し、大学自治の主内容を構成する教員の身分保障の要求が大学人によって初めて主張され、その確立の契機となったという点において、日本の大学自治の歴史上大きな意義をもつ。
[佐藤能丸]
『向坂逸郎編著『嵐のなかの百年――学問弾圧小史』(1952・勁草書房)』▽『伊ヶ崎暁生著『新版 大学の自治の歴史』(1980・新日本出版社)』