日本大百科全書(ニッポニカ) 「七博士建白事件」の意味・わかりやすい解説
七博士建白事件
しちはかせけんぱくじけん
東京帝国大学教授を中心とする7人の博士による日露開戦論運動。東京帝大教授戸水寛人(とみずひろんど)、富井政章(とみいまさあきら)、金井延(かないのぶる)、松崎蔵之助、寺尾亨(とおる)と学習院兼東京高等商業学校教授中村進午(しんご)の六博士は、旧国民同盟会系の対外硬派に呼応して対露強硬の世論喚起に努め、1903年(明治36)夏にはロシアの満州撤兵問題をめぐって急進化した。この間、松崎が退いて高橋作衛(さくえ)、小野塚喜平次(おのづかきへいじ)両東京帝大教授が加わり、この7人の博士は桂(かつら)太郎首相の外交政策を軟弱として批判し、主戦論を展開、同年6月10日連名で開戦の建白書を提出した。これが、対露交渉をめぐって行われた御前会議翌日の24日『東京朝日新聞』に公表され、その対露強硬外交・即時開戦の主張は世間に衝撃を与えた。この学者グループの新聞・雑誌や講演による積極的な行動は、日露開戦論の火付け役を果たすものとなった。また小野塚が抜けて建部遯吾(たてべとんご)東京帝大教授が加わったのちの七博士の運動は、日露講和条約締結反対の主張に至って、05年戸水事件を引き起こした。
[佐藤能丸]
『蔵原惟昶編・刊『日露開戦論纂』(1903)』