中山忠光(読み)ナカヤマタダミツ

デジタル大辞泉 「中山忠光」の意味・読み・例文・類語

なかやま‐ただみつ【中山忠光】

[1845~1864]幕末尊攘派公家天誅組てんちゅうぐみ大和五条挙兵参加、その首領となったが、事破れて長州に逃れ、暗殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「中山忠光」の意味・読み・例文・類語

なかやま‐ただみつ【中山忠光】

  1. 幕末の尊攘派の公卿。大納言忠能の第五子。和宮降嫁に反対、文久三年(一八六三下関外国船砲撃に参加。同年大和行幸に際して天誅組を組織、敗れて長州に走ったが暗殺された。弘化二~元治元年(一八四五‐六四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中山忠光」の意味・わかりやすい解説

中山忠光
なかやまただみつ
(1845―1864)

幕末期尊攘(そんじょう)派の公家(くげ)。弘化(こうか)2年4月13日生まれ。父は中山忠能(ただやす)。1858年(安政5)侍従となり、60年(万延1)睦仁親王(むつひとしんのう)(明治天皇)祗候(しこう)を命ぜられた。武市瑞山(たけちずいざん)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、真木和泉(まきいずみ)ら尊攘激派と交遊して彼らの影響を受け、公家尊攘激派として台頭した。63年(文久3)2月国事寄人(こくじよりゅうど)となったが、3月初め無断で京都を脱し長州藩に入り、官位を返上、名も森俊斎(または秀斎)と改め、5月10日には下関(しものせき)で長州藩軍艦に同乗しアメリカ商船の砲撃に加わった。6月京都に帰り、吉村虎太郎(とらたろう)らとともに京都を脱出、8月大和(やまと)五條(ごじょう)代官を襲撃し討幕の兵をあげたが、この天誅(てんちゅう)組挙兵は失敗に終わった。その後長州藩に逃れたが、翌元治(げんじ)元年11月15日藩の刺客により暗殺された。

[佐々木克]

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改訂新版 世界大百科事典 「中山忠光」の意味・わかりやすい解説

中山忠光 (なかやまただみつ)
生没年:1845-64(弘化2-元治1)

幕末の尊攘派公卿。中山忠能(ただやす)の子であったが,長兄忠愛の養子となる。侍従として祐宮(明治天皇)に仕えたが,奔放な性格から直接尊攘運動に参画し,1863年(文久3)3月,外国船打払計画に応じて長州に赴く。しかし同年8月,大和行幸に呼応しようとした天誅組の首領に推され,大和五条に挙兵した。敗北したあと長州に逃れたが,翌年になって第1次長州征伐後,藩内恭順派により暗殺された。
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百科事典マイペディア 「中山忠光」の意味・わかりやすい解説

中山忠光【なかやまただみつ】

幕末の過激尊攘派公卿。中山忠能(ただやす)の子で兄忠愛(ただなる)の養子。祐宮(さちのみや)(明治天皇)に仕えたが,1863年官位を返上し,長州へ出奔,下関の外国艦砲撃に参加。さらに1864年天誅(てんちゅう)組首領に推されて大和(やまと)五条に挙兵したが敗れ(十津川の変),長州へ逃れる。翌年の第1次長州征伐後,藩内の恭順派の手で暗殺。
→関連項目十津川の変

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朝日日本歴史人物事典 「中山忠光」の解説

中山忠光

没年:元治1.11.15(1864.12.13)
生年:弘化2.4.13(1845.5.18)
幕末の公家。中山忠能の7男,母は平戸藩主松浦氏愛子。長兄忠愛の養子。文久3(1863)年2月国事寄人。真木和泉,吉村虎太郎ら尊攘派志士と交流し,同年3月賀茂社攘夷祈願行幸に供奉。その後京を脱して長州に入り,森俊斎(秀斎)と改名,官位を返上して攘夷の実行を図る。6月京都情勢不穏を知り帰洛するが,8月13日大和行幸の詔が出されると「攘夷親征の奉迎」と称して同17日,吉村らと大和五条で挙兵した(天誅組の変)。8月18日の政変ののち幕府の鎮圧軍に敗れ,大坂へ脱出。さらに長州へ渡るが,第1次長州征討下の翌元治1(1864)年11月,佐幕派の手にかかり潜居中の豊浦郡で暗殺された。<参考文献>正親町季董『天忠組の主将中山忠光』

(保延有美)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中山忠光」の意味・わかりやすい解説

中山忠光
なかやまただみつ

[生]弘化2(1845).4. 京都
[没]元治1(1864).12.8. 長門,豊浦
幕末の尊攘派の公家。権大納言忠能の3男。安政5 (1858) 年侍従として宮中に出仕したが,文久3 (63) 年官位を返上して長州に走り,長州藩士らと攘夷親征に奔走。吉村寅太郎らの大和五条挙兵を聞いて (→大和五条の変 ) ,これに参加し,首領となったが,敗れて長州に脱出。長州藩恭順派のために豊浦で暗殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中山忠光」の解説

中山忠光 なかやま-ただみつ

1845-1864 幕末の公家(くげ)。
弘化(こうか)2年4月13日生まれ。中山忠能(ただやす)の7男。中山慶子(よしこ)の弟。尊攘(そんじょう)派公家として活躍,文久3年官位を返上して森俊(秀)斎と称し,下関の外国船砲撃にくわわる。同年吉村虎太郎らと天誅(てんちゅう)組を組織して盟主となり,大和(やまと)(奈良県)で挙兵,五条の代官所をおそった。長門(ながと)(山口県)萩藩内にひそむが,元治(げんじ)元年11月15日暗殺された。20歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中山忠光」の解説

中山忠光
なかやまただみつ

1845.4.13~64.11.15

幕末期の公家。准大臣忠能(ただやす)の七男。母は肥前国平戸藩主松浦静山の女愛子。長兄忠愛(ただなる)の養子。1858年(安政5)侍従,63年(文久3)国事寄人(よりうど)。尊攘派志士と交わり,大和行幸を企図。天誅組首領として大和国五条代官所を襲撃。幕府軍に敗れ長門国萩藩領に潜伏。64年(元治元)藩内佐幕派に暗殺される。70年(明治3)贈正四位。萩藩側は,領内の住吉神社内の中山社(現,中山神社)に祭祀した。

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防府市歴史用語集 「中山忠光」の解説

中山忠光

明治天皇のおじ(母の弟)で、熱心な尊王攘夷派でした。1863年(文久3年)に天誅組の変[てんちゅうぐみのへん]が失敗した後、富海の大和屋政助[やまとやまさすけ]の船で長州藩にのがれましたが、保守派が藩の主導権をにぎると暗殺されました。現在、下関市にある墓は国の史跡に指定されています。

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旺文社日本史事典 三訂版 「中山忠光」の解説

中山忠光
なかやまただみつ

1845〜64
幕末の尊攘派公卿
忠能 (ただやす) の子。尊王攘夷運動に加わり,1863年官位を辞して下関で外国船砲撃事件に参加。ついで吉村寅太郎らと大和で天誅組の変をおこしたが敗北。翌年長州藩保守派に暗殺された。

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367日誕生日大事典 「中山忠光」の解説

中山忠光 (なかやまただみつ)

生年月日:1845年4月13日
江戸時代末期の公家
1864年没

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