コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

中山忠光 なかやま ただみつ

10件 の用語解説(中山忠光の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

中山忠光

忠能の三男。弘化2年(1845)生。文久3年(1863)攘夷親征を唱え、村寅太郎等に迎えられて天忠組の首領となる。後長洲にのがれ暗殺さる。元治元年(1864)歿、20才。(料紙絵は本願寺絵所荊香、仲尾壱岐書)

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

なかやま‐ただみつ【中山忠光】

[1845~1864]幕末の尊攘派公家。天誅組(てんちゅうぐみ)の大和五条挙兵に参加、その首領となったが、事破れて長州に逃れ、暗殺された。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

中山忠光【なかやまただみつ】

幕末の過激尊攘派公卿。中山忠能(ただやす)の子で兄忠愛(ただなる)の養子。祐宮(さちのみや)(明治天皇)に仕えたが,1863年官位を返上し,長州へ出奔,下関の外国艦砲撃に参加。
→関連項目十津川の変

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

中山忠光 なかやま-ただみつ

1845-1864 幕末の公家(くげ)。
弘化(こうか)2年4月13日生まれ。中山忠能(ただやす)の7男。中山慶子(よしこ)の弟。尊攘(そんじょう)派公家として活躍,文久3年官位を返上して森俊(秀)斎と称し,下関の外国船砲撃にくわわる。同年吉村虎太郎らと天誅(てんちゅう)組を組織して盟主となり,大和(やまと)(奈良県)で挙兵,五条の代官所をおそった。長門(ながと)(山口県)萩藩内にひそむが,元治(げんじ)元年11月15日暗殺された。20歳。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

中山忠光

没年:元治1.11.15(1864.12.13)
生年:弘化2.4.13(1845.5.18)
幕末の公家。中山忠能の7男,母は平戸藩主松浦氏愛子。長兄忠愛の養子。文久3(1863)年2月国事寄人。真木和泉,吉村虎太郎ら尊攘派志士と交流し,同年3月賀茂社攘夷祈願行幸に供奉。その後京を脱して長州に入り,森俊斎(秀斎)と改名,官位を返上して攘夷の実行を図る。6月京都情勢不穏を知り帰洛するが,8月13日大和行幸の詔が出されると「攘夷親征の奉迎」と称して同17日,吉村らと大和五条で挙兵した(天誅組の変)。8月18日の政変ののち幕府の鎮圧軍に敗れ,大坂へ脱出。さらに長州へ渡るが,第1次長州征討下の翌元治1(1864)年11月,佐幕派の手にかかり潜居中の豊浦郡で暗殺された。<参考文献>正親町季董『天忠組の主将中山忠光

(保延有美)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

防府市歴史用語集の解説

中山忠光

明治天皇のおじ(母の弟)で、熱心な尊王攘夷派でした。1863年(文久3年)に天誅組の変[てんちゅうぐみのへん]が失敗した後、富海の大和屋政助[やまとやまさすけ]の船で長州藩にのがれましたが、保守派が藩の主導権をにぎると暗殺されました。現在、下関市にある墓は国の史跡に指定されています。

出典|ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

なかやまただみつ【中山忠光】

1845‐64(弘化2‐元治1)
幕末の尊攘派公卿。中山忠能(ただやす)の子であったが,長兄忠愛の養子となる。侍従として祐宮(明治天皇)に仕えたが,奔放な性格から直接尊攘運動に参画し,1863年(文久3)3月,外国船打払計画に応じて長州に赴く。しかし同年8月,大和行幸に呼応しようとした天誅組の首領に推され,大和五条に挙兵した。敗北したあと長州に逃れたが,翌年になって第1次長州征伐後,藩内恭順派により暗殺された。【池田 敬正】

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

なかやまただみつ【中山忠光】

1845~1864) 幕末の尊攘派の公家。忠能ただやすの子。1863年天誅組の首領に推され大和五条に挙兵したが、諸藩の追討軍に敗れて、長州に脱出、暗殺された。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中山忠光
なかやまただみつ

[生]弘化2(1845).4. 京都
[没]元治1(1864).12.8. 長門,豊浦
幕末の尊攘派の公家。権大納言忠能の3男。安政5 (1858) 年侍従として宮中に出仕したが,文久3 (63) 年官位を返上して長州に走り,長州藩士らと攘夷親征に奔走。吉村寅太郎らの大和五条挙兵を聞いて (→大和五条の変 ) ,これに参加し,首領となったが,敗れて長州に脱出。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中山忠光
なかやまただみつ
(1845―1864)

幕末期尊攘(そんじょう)派の公家(くげ)。弘化(こうか)2年4月13日生まれ。父は中山忠能(ただやす)。1858年(安政5)侍従となり、60年(万延1)睦仁親王(むつひとしんのう)(明治天皇)祗候(しこう)を命ぜられた。武市瑞山(たけちずいざん)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、真木和泉(まきいずみ)ら尊攘激派と交遊して彼らの影響を受け、公家尊攘激派として台頭した。63年(文久3)2月国事寄人(こくじよりゅうど)となったが、3月初め無断で京都を脱し長州藩に入り、官位を返上、名も森俊斎(または秀斎)と改め、5月10日には下関(しものせき)で長州藩軍艦に同乗しアメリカ商船の砲撃に加わった。6月京都に帰り、吉村虎太郎(とらたろう)らとともに京都を脱出、8月大和(やまと)五條(ごじょう)代官を襲撃し討幕の兵をあげたが、この天誅(てんちゅう)組挙兵は失敗に終わった。その後長州藩に逃れたが、翌元治(げんじ)元年11月15日藩の刺客により暗殺された。[佐々木克]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

中山忠光の関連キーワード堀河康親中山忠尹中山忠能中山綱子中院通富中山忠愛中山一位局安藤藤二中山兼季松浦皓

今日のキーワード

災害派遣

天災地変その他の災害に際して,人命または財産の保護のために行なわれる自衛隊の派遣。災害出動ともいう。都道府県知事などの要請に基づいて,防衛大臣が派遣することを原則とするが,特に緊急を要する場合,要請を...

続きを読む

コトバンク for iPhone