(安村敏信)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
生没年および伝歴未詳。江戸初期の画家。無下斎、一陳翁(いっちんおう)などと号す。17世紀初めから末ごろまで活躍したと推定され、90歳ぐらいの高齢で没したとされる。狩野探幽(かのうたんゆう)門下の四天王の筆頭と目され、江戸中期の画人木村探元(1679―1767)の著『三暁庵筆記(さんぎょうあんひっき)』によれば、当時江戸表では、探幽より上手(じょうず)とさえうわさされたという。探幽の姪(めい)を嫁に迎え、師とは姻戚(いんせき)関係を結ぶまでに信頼されながらも、のちには狩野一門を離脱、一説には破門されたとも伝えられる。晩年の一時期金沢に客寓(きゃくぐう)、その後京都に移り住んで、茶人藤村庸軒(ようけん)とも親交があった。探幽らの聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の障壁画(しょうへきが)制作(1642)に参画し『十六羅漢図(らかんず)』を描いたのが、守景唯一の年代の明らかな画業である。ほかにも加賀前田家の菩提所(ぼだいしょ)瑞竜寺(ずいりゅうじ)の襖絵(ふすまえ)を描くなど、遺品は相当数知られ、それらは江戸狩野様式によりながらも、みずみずしい感性にあふれ、清新な画趣を示している。ことに田園風俗に取材した作品に本領を発揮し、四季折々に繰り広げられる農民の生活を哀歓こめた清冽(せいれつ)な筆致にのせて描き出した。代表作に『夕顔棚納涼図屏風(びょうぶ)』(東京国立博物館)、『賀茂競馬(かもけいば)・宇治茶摘図屏風』(東京・大倉集古館)、『四季耕作図屏風』(石川県美術館)などがある。
[榊原 悟]
『小林忠・榊原悟著『日本美術絵画全集16 守景・一蝶』(1982・集英社)』
江戸前期の江戸狩野派系の画家。生没年不詳。通称を半兵衛といい,無下斎,一陳翁,棒印と号す。探幽門下四天王の筆頭と目されたが,のち破門されて放浪の旅に出たと伝えられる。1642年(寛永19)に探幽らと描いた大津市の聖衆来迎寺客殿障壁画が,年代の知られる唯一の遺品。晩年の一時期,加賀藩に寄食したため北陸地方に遺品が多く残されているが,正式に前田家の御用絵師を務めたわけではないらしい。主要作品《夕顔棚納涼図屛風》や《四季耕作図屛風》などは,この間の作と推定される。最晩年には京都に上り,茶人の藤村庸軒と交わりを結んだという。守景の絵画史上の意義は,当時しだいに安易な粉本主義から創造性を失いつつあった江戸狩野派を離れ,農民の生活に取材した田園風俗を自由に描くことによって狩野派にない新生面を開いたことにある。なお,守景の娘雪はのちに一流の閨秀画家といわれた清原雪信(1643-82)であるが,大和絵的な画風で,父との共通性は見いだせない。
執筆者:安村 敏信
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生没年不詳。江戸前期の狩野(かのう)派の画家。狩野探幽(たんゆう)の門人。聖衆来迎寺客殿障壁画(滋賀県)など探幽門下四天王の1人として活躍。のち探幽に破門され,晩年は一時加賀に住した。当時の狩野派が画題・技法ともに形式化していくなかで,「夕顔棚納涼図屏風」(国宝),一連の「四季耕作図屏風」など農民の実生活に即した穏やかな作品を残し,人気が高い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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