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久隅守景 くすみ もりかげ

美術人名辞典の解説

久隅守景

江戸前期の画家。京都生。通称は半兵衛、号は無下斎・一陳翁。探幽門下の四天王と称せられる。雪舟に私淑した線描を効果的に用いて田園生活など実景に取材した画題を描き、優れた創造性を発揮した。山水花卉・人物を能くした他、晩年加賀前田家に仕えて九谷焼陶画を描き「守景下絵」として珍重された。元禄年間(1688~1704)存、歿年未詳。

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デジタル大辞泉の解説

くすみ‐もりかげ【久隅守景】

江戸初期の画家。江戸の人。号、無下斎・一陳翁。狩野探幽(かのうたんゆう)に師事、のち破門されたという。農民・庶民の風俗を描いた「夕顔棚納涼図」「耕作図」が有名。生没年未詳。

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百科事典マイペディアの解説

久隅守景【くすみもりかげ】

江戸前期の画家。寛永〜元禄に至る長い画作生活と,狩野探幽門下の四天王の一人であったが,のち破門されたらしいこと以外は生没,伝歴とも不詳。農民や庶民の生活を情感のこもった筆致で描いたのが特色。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

久隅守景 くすみ-もりかげ

?-? 江戸時代前期の画家。
清原雪信の父。狩野探幽(かのう-たんゆう)門下の四天王のひとり。寛永19年(1642)近江(おうみ)大津の聖衆(しょうじゅ)来迎寺障壁画の制作に参加。明暦のころ加賀金沢藩主前田家につかえ,農村風俗を題材に,独自の画風をうちたてた。晩年は京都で藤村庸軒(ようけん)と交際。90歳くらいで死去したという。通称は半兵衛。号は一陳翁,無礙斎など。作品に「夕顔棚納涼図屏風(びょうぶ)」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

久隅守景

生年:生没年不詳
江戸初期の画家。出自は不明であるが,通称を半兵衛といい,無下斎,無礙斎,一陳翁などと号した。狩野探幽門下の四天王に数えられ,探幽の姪国と結婚するが,破門されたと伝えられている。寛永18(1641)年,狩野尚信,信政と共に知恩院小方丈下段之間の襖絵を制作。翌年,探幽に率いられ尚信,信政らと聖衆来迎寺客殿障壁画制作に携わる。このころの作風は探幽画風を忠実に習っている。上記ふたつの画事が守景の生涯では名誉ある仕事となっているが,画風展開のうえでは守景風はまだみられず,習作期間に位置づけられよう。寛文12(1672)年,息子の彦十郎が狩野家から破門され,さらに罪を得て佐渡へ流される。一説にこの後の延宝年間(1673~1681)加賀(金沢)に赴き,6年間滞在し,加賀藩の家老今枝,小幡の両家並びに家柄町人片岡孫兵衛の家に寄宿したと伝える。この守景の加賀行きと関連して,富山県高岡市の瑞竜寺には守景の水墨襖絵8面が残されている。この寺は加賀藩主前田利常が兄利長の菩提を弔うために建立したもので,造営は正保2年から明暦2年の間(1645~56)で,襖絵の制作も同時期とみられる。画中の岩の輪郭線などに守景特有のぺったりとして野太い筆使いがみられ,探幽風を基本としながらも独自の画風を形成してゆくさまがみえる。この制作が縁となって後年の加賀行きに至ったものか。いずれにしろ晩年は京都で過ごしたようで,茶道の師藤村庸軒の肖像を描いた記録がある。 守景の意義は,探幽門下の多くが師風に忠実で,やがて形式化してゆくが,そのような江戸狩野派のなかにあって,農民の何げない日常のひとこまや生業のさまなどを朴訥な作風で描き,独自の世界を切り開いたことにある。代表作の「夕顔棚納涼図屏風」(東京国立博物館蔵)や「四季耕作図屏風」(石川県立美術館蔵)は,守景のそうした特色をよく表しているが,やまと絵を学んだと思われる異色作として「鷹狩図屏風」(個人蔵)や「加茂競馬・宇治茶摘図屏風」(大倉集古館蔵)も見逃せない。

(安村敏信)

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世界大百科事典 第2版の解説

くすみもりかげ【久隅守景】

江戸前期の江戸狩野派系の画家。生没年不詳。通称を半兵衛といい,無下斎,一陳翁,棒印と号す。探幽門下四天王の筆頭と目されたが,のち破門されて放浪の旅に出たと伝えられる。1642年(寛永19)に探幽らと描いた大津市の聖衆来迎寺客殿障壁画が,年代の知られる唯一の遺品。晩年の一時期,加賀藩に寄食したため北陸地方に遺品が多く残されているが,正式に前田家の御用絵師を務めたわけではないらしい。主要作品《夕顔棚納涼図屛風》や《四季耕作図屛風》などは,この間の作と推定される。

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大辞林 第三版の解説

くすみもりかげ【久隅守景】

江戸前期の画家。号は無下斎。狩野探幽門下の四天王の一人。狩野門下を離れ(一説に、破門)、金沢で活動。農民・庶民を主題とした詩情豊かな風俗画に特色があり、山水画もよくした。代表作「夕顔棚納涼図」など。生没年未詳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

久隅守景
くすみもりかげ

江戸時代の寛永~元禄期頃活躍した画家。通称半兵衛,号は一陳翁,無下斎,無礙斎。狩野探幽に師事。知恩院,聖衆来迎寺の障壁画制作には探幽,尚信らと参加し,探幽門下の四天王の一人に数えられたが,のち破門されたと伝える。中年以降,一時加賀の前田家に仕えて瑞龍寺瑞雲閣『山水図』襖絵などを残す。狩野派の伝統主義や形式主義から脱却した,より写実的で日本的情趣に富む作風を有し,特に農民や庶民を描いた風俗画に傑作が多い。主要作品『夕顔棚納涼図屏風』 (東京国立博物館) ,『四季耕作図屏風』 (石川県美術館) ,聖衆来迎寺『羅漢図』障壁画など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

久隅守景
くすみもりかげ

生没年および伝歴未詳。江戸初期の画家。無下斎、一陳翁(いっちんおう)などと号す。17世紀初めから末ごろまで活躍したと推定され、90歳ぐらいの高齢で没したとされる。狩野探幽(かのうたんゆう)門下の四天王の筆頭と目され、江戸中期の画人木村探元(1679―1767)の著『三暁庵筆記(さんぎょうあんひっき)』によれば、当時江戸表では、探幽より上手(じょうず)とさえうわさされたという。探幽の姪(めい)を嫁に迎え、師とは姻戚(いんせき)関係を結ぶまでに信頼されながらも、のちには狩野一門を離脱、一説には破門されたとも伝えられる。晩年の一時期金沢に客寓(きゃくぐう)、その後京都に移り住んで、茶人藤村庸軒(ようけん)とも親交があった。探幽らの聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の障壁画(しょうへきが)制作(1642)に参画し『十六羅漢図(らかんず)』を描いたのが、守景唯一の年代の明らかな画業である。ほかにも加賀前田家の菩提所(ぼだいしょ)瑞竜寺(ずいりゅうじ)の襖絵(ふすまえ)を描くなど、遺品は相当数知られ、それらは江戸狩野様式によりながらも、みずみずしい感性にあふれ、清新な画趣を示している。ことに田園風俗に取材した作品に本領を発揮し、四季折々に繰り広げられる農民の生活を哀歓こめた清冽(せいれつ)な筆致にのせて描き出した。代表作に『夕顔棚納涼図屏風(びょうぶ)』(東京国立博物館)、『賀茂競馬(かもけいば)・宇治茶摘図屏風』(東京・大倉集古館)、『四季耕作図屏風』(石川県美術館)などがある。[榊原 悟]
『小林忠・榊原悟著『日本美術絵画全集16 守景・一蝶』(1982・集英社)』

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