日本歴史地名大系 「亀尻村」の解説 亀尻村かめじりむら 福岡県:三池郡高田町亀尻村[現在地名]高田町亀谷(かめたに)田尻(たじり)村の東、飯江(はえ)川の上流にある。三池郡に属し、下流は同郡飯江村・山門(やまと)郡飯江村。天正七年(一五七九)頃、龍造寺氏に従っていた田尻鑑種に与えられた年月日欠の知行坪付(田尻家文書/佐賀県史料集成七)に三池郡の「亀尻村」三町がある。しかしもともと亀尻は田尻氏の知行地として大友氏から保証を得ていた地で、年月日欠の田尻氏所領不知行分坪付(同上)に「山門郡亀尻 三町不知行」とある。同一一年頃とみられる年月日欠の田尻鑑種本領村数等覚書(同上)には「かミじり」とある。同一二年六月、大友氏が肥後・筑後に進攻すると、肥前に退去していた鑑種は龍造寺氏の重臣鍋島信生の仲介により本領の田尻・亀尻・海津(かいづ)の三ヵ村を兵粮として返付され、筑後へ戻り大友勢と戦った(「普聞集」など)。 亀尻村かめしりむら 島根県:八束郡八束町亀尻村[現在地名]八束町亀尻寺津(てらづ)村の東に位置し、東は馬渡(まわたし)村、北は中海に面する。大根(だいこん)島七ヵ村の一つで、後分に属する。寛永八年(一六三一)の大根島御検地帳に村名がみえ、当村と馬渡村は一括して記載される。田はなく、畑高九二石余・反別一七町一反余、家数九、名請人一五。元禄一三年(一七〇〇)の大根島検地帳(八束町役場蔵)では当村の高六四石余、反別は畑一三町余、名請人三三。享保一三年(一七二八)頃当村から七戸の家族が夜見(よみ)村(現鳥取県米子市)に入植し、夜見新田を開発した(「柏木氏家系図」柏木家文書、「八束町誌」)。宝暦一三年(一七六三)の大根島万指出帳(八束町役場蔵)では家数三一・人数一五三、船数六。 亀尻村かめじりむら 鳥取県:気高郡青谷町亀尻村[現在地名]青谷町亀尻苔川(こけがわ)村の南、勝部(かちべ)谷中央部の東山麓に位置する。西方、勝部川対岸の川積(かわつみ)(河詰)のほか栗の畑(くりのはた)・青畑(あおはた)・八幡宮(はちまんぐう)の枝郷がある。拝領高は三五九石余、本免は五ツ四分。藪役銀一匁六厘が課せられ(藩史)、宮崎・海野・西野・佐藤・花房・山田・唯の各氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数四四。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高三九六石余、竈数四七。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by