海軍飛行予科練習生(予科練) より若いうちから航空機パイロットを多く育てようと、当初14~17歳の少年を試験で選抜し、各地の航空基地で教育訓練をさせた制度。1930年に始まり、終戦までに約24万人が入隊。訓練を経て戦地に送られた約2万4千人のうち約1万9千人が戦死した。予科練教育を専門とする土浦海軍航空隊は40年に設置。茨城県阿見町の跡地に立つ予科練記念館「雄翔館」には、約1200点の遺品が展示されている。
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海軍飛行予科練習生の略称。海軍は1930年志願兵の兵種の一つとして小学校高等科卒業生を対象に,3年の課程で飛行搭乗員を養成する予科練習生を採用しこれを少年飛行兵と呼んだが,37年2月には飛行予科練習生と改称した。さらに同年5月中等学校4年修了者を1年半の課程で養成する甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を新設するとともに,従来の飛行予科練習生を乙種(乙飛)とした。この甲飛,乙飛を総称して予科練という。このほか,40年から発足した海軍兵から選抜された丙種予科練習生(丙飛)もある。予科練は初め横須賀航空隊内に併設されたが,のちに茨城県土浦に独立した。戦闘機乗りを養成する予科練の教育・訓練は厳しく予科練習生から飛行練習生として進み,下士官として巣立っていった。採用数は戦局とともに激増し,甲飛練は約14万8000人,乙飛練は約3万5000人に達したといわれる。44年秋に神風特別攻撃隊による特攻戦法が開始されてから,予科練出身者の多くはこの体当り攻撃に当てられ,犠牲者を激増させた。戦時下の男子の理想は,軍歌や映画などが英雄的にとりあげた少年飛行兵や少年戦車兵になることだったが,その花形は七つボタンの制服(1942年から採用)の予科練であった。予科練は志願によるものだったが,戦争末期には全国の中学校へ少年兵志願者が割り当てられることもあった。
執筆者:粟屋 憲太郎
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旧日本海軍における航空機搭乗員の養成制度。海軍飛行予科練習生の略称。航空兵力の拡充のため1930年(昭和5)に創設。その後、中学校第4学年第1学期終了程度の者から採用する甲種、高等小学校卒業程度の者から採用する乙種、海軍兵から採用する丙種の3種に区分され、海軍飛行兵の中心的存在となった。練習航空隊としては茨城県土浦(つちうら)の霞ヶ浦(かすみがうら)航空隊が有名であり、その名は予科練の代名詞となった。
[吉田 裕]
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…未成年の少年を兵員として動員するのは,第2次大戦中のナチスによるベルリン防衛少年隊などの例があるが,日本でも太平洋戦争中,各種の少年兵が大量に募集された。すでに海軍は海軍航空本部の設置をうけて,1930年海軍志願兵の兵種の一つとして,飛行予科練習制度(予科練)を採用し,高等小学校卒業程度の少年を3年間教育して少年飛行兵を育成することにした。この予科練制度は37年に拡大・整備され,太平洋戦争中には大規模に募集され,特攻攻撃に動員された。…
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