改訂新版 世界大百科事典 「二六新報」の意味・わかりやすい解説
二六新報 (にろくしんぽう)
秋山定輔によって1893年(明治26)に創刊された日刊新聞。紙名は発行年にちなむ。編集には鈴木天眼,柴四朗らが当たり,対外強硬政策を主張した。しかし資金難のため95年いったん廃刊,1900年秋山の同郷(岡山)の鉱山事業家坂本金弥の資金援助を得て再刊された。三井財閥攻撃,娼妓の自由廃業問題,煙草王岩谷松平攻撃などのキャンペーンによって一躍人気を博した。社説から三面記事まで全紙面を動員した扇情的な醜聞暴露記事が,安い紙代とあいまって当時の都市下層民衆に好意的に迎えられたところに成功の原因がある。01年,東京・向島に労働者大懇親会を主催したのもこの路線の延長上にある。03年にはみずから発行部数を公表し,約14万部,全国第1位と自称した。しかし扇動的キャンペーン路線は政府の危険視するところとなり,1902年の第2回労働者大懇親会は禁止され,幹部社員が恐喝容疑で拘引されるなどの弾圧を受けた。日露開戦に際しては秋山定輔が〈露探〉(ロシアのスパイ)であるとのデマが流され,新聞も04年4月14日をもって発行禁止とされた。翌4月15日から《東京二六新聞》と改題し継続発行されたが,それまでの熱気は失われていった。09年《二六新報》に復題。11年,秋山定輔から秋田清に経営譲渡された。14年には山本内閣攻撃が理由で再度発行禁止となる。このため14年7月《二六新聞》,同年11月《世界新聞》と改題。18年2月《二六新報》と復題し,夕刊紙となったが,経営は振るわなかった。1940年9月戦時新聞統合で廃刊。
執筆者:有山 輝雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報