二十人町
にじゆうにんまち
前沢新町の北を二十人町という。天和三年(一六八三)伊達騒動のため伊達兵部宗勝が改易になり、足軽一〇〇人が一関から前沢に移されたが、二十人町の大内家文書に「北足軽町、六丁十間、此人頭百人」とあるから、新町以北に住んだことが知られる。また五十人町の菅原家の系図に「天和三年三沢左京君、前沢一村御拝領」とあり、同年桃生郡小野(現宮城県桃生郡鳴瀬町)より前沢村へ移り、元禄一三年(一七〇〇)四月一九日、「伊達兵部大輔君の御足軽百人組を五ケ所へ廻され、江刺郡口内・伊手・人首・野手崎へ二十人ずつ前沢にも二十人都合百人なり」とあり、はじめ一関より移り住んだ北足軽町一〇〇人のうち二〇人が残り、残り八〇人が他の四ヵ所に配置替えになったことがわかる。
二十人町
にじゆうにんまち
[現在地名]仙台市二十人町
新寺小路の北、鉄砲町の南裏にある足軽屋敷。大町通とはやや方向がずれるがその東に延びる通りであり、西末は南北に走る東七番丁と結ぶ。東端は榴岡天神社の北裏になる。なお当町から東に延びる二十人町通は明治に入ってからの通名。正保仙台城絵図では当町はみえず、東西五町、南北三町の深田と記されるが、寛文九―一一年(一六六九―七一)の城下絵図では足軽屋敷が割出されている。
二十人町
にじゆうにんまち
[現在地名]金沢市石引二丁目
波着寺門前の北西に位置。延宝町絵図には明組足軽・地子明組足軽・明与足軽の地としてみえるが、のちには持筒足軽組の屋敷地となった(金沢古蹟志)。町名の由来は江戸時代初期より、足軽は二〇人または五〇人を一組としたことによる(金沢古蹟志)。天正一二年(一五八四)千福長左衛門が鉄砲頭に任ぜられ、鉄砲の者二〇人が組織されたが(「拾遺温故雑帖」金沢古蹟志)、これが足軽組のはじめといわれる(同書)。
二十人町
にじゆうにんまち
[現在地名]甲府市相生一―二丁目
代官町の西に並行する南北通りの郭外武家地。北は西青沼町一丁目から南は農業用水土手までの間で同心組屋敷が並ぶ(「御家中御役人番屋敷帳」県立図書館蔵)。町名は元禄三年(一六九〇)の甲府町絵図写(坂田家文書)にはみえず、「甲陽柳秘録」に記されるので、甲府藩の時代に武家屋敷地として整えられたのであろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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