近世剣術の一流派。流祖は宮本武蔵玄信(むさしげんしん)(1584―1645)。武蔵は初め流名を円明(えんめい)流と称し、晩年は二刀一流を号したが、その没後20年を経た1666年(寛文6)ころ、道統を継いだ寺尾求馬助信行(てらおくめのすけのぶゆき)(1621―88)によって、師の法号二天道楽居士(にてんどうらくこじ)にちなみ、二天一流と改めた。この流が技法上、大小二刀を基本とする意義について、『兵法三十五箇条』の冒頭に「左の手にさして心なし、太刀(たち)を片手にて取ならはせん為(ため)なり」と述べ、『五輪書(ごりんのしょ)』には、「二刀と云(いい)出す所、武士は将卒ともにぢきに二刀を付(つく)る役なり、……此(この)二つの利を知らしめんため二刀一流と云なり」と述べている。武蔵はあまり門人をとらなかったが、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)円明流と称したころの門人としては、尾張(おわり)(名古屋)円明流の祖で讃岐(さぬき)の人、竹村与右衛門頼角(たけむらよえもんよりすみ)、鉄人実手(てつじんじって)流を始めた姫路の人、青木城右衛門金家(じょうえもんかねいえ)、江戸滞留中の門人、石川主税清宣(ちからきよのぶ)らがある。また武蔵終焉(しゅうえん)の地である肥後熊本における二天一流の正式相伝者は、同藩士寺尾孫之丞信正(まごのじょうのぶまさ)(のち夢世勝信(ゆめよかつのぶ))とその弟求馬助信行、古橋惣左衛門良政(ふるはしそうざえもんよしまさ)の3人であったが、孫之丞は家職の御鉄砲頭(1050石)に専心し、古橋は江戸へ出たため、求馬助が道統を継いだ。求馬助のち藤兵衛には6人の男子があり、なかでも四男信盛(のぶもり)は名手で、新免辨助(しんめんべんすけ)を称したが、1701年(元禄14)45歳で惜しくも死去した。寺尾の門流はその後、熊本藩を中心に、福岡、佐賀など北九州諸藩に広がりをみせた。
[渡邉一郎]
※「二天一流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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