二宮庄
にのみやのしよう
下関市の長府宮ノ内辺りを荘域とすると思われる忌宮神社領。立荘の時期は不詳。
長門二宮忌宮神社文書に永万二年(一一六六)二月五日付の二宮社領留飯野畠堺証文と伝える文書があり、
<資料は省略されています>
とし、また同年月日付の二宮社領寺後野畠堺証文と伝える文書がある。
二宮庄は、鎌倉時代中期、一宮住吉神社と同様に長門警固所に寄進され、蒙古に対する国防の費用にあてられて長門守護職が管轄したが、その後忌宮神社は幕府に愁訴。
二宮庄
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高瀬町羽方と二宮を中心とする地域に比定される。宮川流域にわずかに平地が開けているだけで、ほかは丘陵・山間部である。もと関白藤原基房の孫基嗣領で、のち京都青蓮院門跡尊助法親王・後嵯峨院・大宮院(藤原
子)・昭慶門院・後醍醐皇子世良親王と伝領された(正慶元年「臨川寺寺領目録」臨川寺文書)。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)では大宮院御領のなかに「西御方領二宮」とあり、三位局が知行主であった。
二宮庄
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周防国二宮(出雲神社)が年貢公事の徴収対象として二宮庄とよばれた。
永万元年(一一六五)六月日の神祇官諸社年貢注文(永万文書)に、神祇官に年貢として大榑三〇〇寸を納める社として「二宮」の名がみえる。すでに諸国寺社と同様に収入源として荘園と同一視されていることがわかる。
二宮庄
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現二之宮にある美和神社周辺にあったとみられる庄園。文明五年(一四七三)一一月の同社蔵古鐘銘に「八代郡二宮荘之内有神廟」とあるのが唯一の所見だが(甲斐国志)、鐘は現存しない。銘文によれば、前年侵入した隣国の軍勢によって旧鐘を奪い取られたので、道秀が発願して新鋳したというが、この事件は「勝山記」同四年五月二〇日条にみえる、武田氏と信濃国の大井氏との花鳥山合戦の際のことであろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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