堀村(読み)ほりむら

日本歴史地名大系 「堀村」の解説

堀村
ほりむら

[現在地名]福知山市字堀

福知山城下の東南、土師はぜ川とおかの台地との間にあり、南は氷上ひかみ(現兵庫県)境の山地までの地域と、土師川東の高畑たかばたけ段畑だんばたけの二小字を含む広大な村。南部を、西方荒木あらき山より荒木川が東流し、その谷頭に小字荒木、その東方に小字森垣もりがいがある。村の北半は土師川の沖積地で俗に「堀田圃」とよばれたが、古来洪水の害をしばしば被った。

堀田圃の南方は新期洪積層の段丘で堀村の中心部をなし、その西部を小字本堀ほんぼり、東部を小字水内みずうちという。この段丘上は格好の住宅地で、古来の著族はそこに住居したようで、所々に堀の跡が残っていた。

この地域の西南に突出する旧期洪積層の残丘荒神こうじん山に古墳が二基あり、一基は昭和一四年(一九三九)に発掘され、人骨や直刀・須恵器などが出土。他の一基は昭和四七年に発掘されたが、下部に弥生時代の住居跡があり、さらにその下部から縄文草創期といわれる刺突文小型丸底土器が出土した(武者ヶ谷遺跡)


堀村
ほりむら

[現在地名]徳地町大字堀

佐波川の中流域に位置し、北は引谷ひくたに小古祖おごそ、西は仁保下郷にほしもごう小鯖おさば(現山口市)、東は山畑やまはた、南は岸見きしみ伊賀地いかじの各村に接する山村。村の北部には白石しらいし山・狗留孫くるそん山がそびえ、東部は佐波川が南西に流れ島地しまじ川が合流して水田地帯を形成する。南部は二の宮にのみや川が東流し、集落は各川に沿って点在する。萩藩領で徳地宰判に属した。

堀村内の小村である庄方しようがたの地名は堀村よりも早くみえ、天正一七年(一五八九)六月六日付の二宮出雲神社文書(「注進案」所収)に「防州佐波郡庄方二宮」とみえる。

近世初期には下徳地の一部であったと思われるが、庄方のみは元禄一二年(一六九九)の郷帳によれば上徳地枝郷庄方村となっている。「地下上申」(享保一四年分)で堀村と記され、総石高二千二一二石余(田方一千九一五石余、畠方二四五石余)、家数三五〇、人数一千三〇一。


堀村
ほりむら

[現在地名]関金町堀

今西いまにし村の西に位置する。慶長一九年(一六一四)一二万二千石から三万石に減じられて倉吉に転封されてきた安房国館山藩主里見忠義が元和三年(一六一七)下田中しもたなか(現倉吉市)、さらに当村に配流となり、みやル付近に三年近く居住したのち同八年当地で死去、里見家は嗣子なく断絶したという(「関金町誌」など)。拝領高は三六四石余、本免は六ツ四分。藪役銀四五匁四分・鍛冶役銀六匁五分を課されていた(藩史)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば竈数四〇余。ほかに堀新田村とみえ、高八〇石余、竈数八とある。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七九六石余、竈数九八。当地中谷なかたににはかつて木地師がいたらしく、氏子狩帳(筒井神社文書)の寛文一〇年(一六七〇)の記事に中谷木地師五戸・一〇人とみえ、享保二〇年の記事によれば二戸・九人がいたことが知られる。


堀村
ほりむら

[現在地名]住吉区長居東ながいひがし一―四丁目、東住吉区長居公園ながいこうえんなど

寺岡てらおか村の東に位置し、南は前堀まえぼり村。「摂津志」に「堀 属邑一」、また「追分茶屋 寺岡・堀二村出戸」とあり、「摂陽群談」は「(ママ)村 在出在家茶屋」と記す。字三軒家さんげんやがその地といわれ、慈光じこう寺と二軒の茶屋の三軒の建家があったのが字名の由来と伝える。また追分というのは堺と住吉に向かう街道の分岐点であったことによる(大阪府全志)。地名は集落の周囲に濠をめぐらしていたことによるという。伝えによれば当地はかつての城跡で、濠はその頃のものという。「織田軍記」の「信長公南方進発所々御働の事」には、堺付近に新堀しんぼりという城があり、三好方の軍勢が立籠っていたが、天正三年(一五七五)四月一九日に織田信長に攻められ落城したことがみえる。


堀村
ほりむら

[現在地名]淀川区十三本じゆうそうほん町一―三丁目・十三東じゆうそうひがし一丁目・十三元今里じゆうそうもといまざと三丁目・新北野しんきたの一丁目

西流する中津川の右岸にある。東は小島こじま村。北の野中のなか村・堀上ほりあげ村境を西流してきた中島なかじま大水道は当村北西端で流路を南に変え、南東部で再び西流し今里村に流入。「細川両家記」に「御一家の典厩藤賢。中島の堀と云処に御在城候。(中略)(永禄九年)八月十四日に退城也」とみえ、当地の城に三好三人衆に抗した細川藤賢が立籠ったが、陥落し開城したことが知られる。「堀」はこの城濠に由来すると考えられる。「信長公記」には元亀元年(一五七〇)九月三日「摂津国中島、細川典厩城迄公方様御同座」とあり、織田信長が三好勢を攻略した時、将軍足利義昭をこの堀城に迎えたことがわかる(「細川両家記」では九月四日晩とする)


堀村
ほりむら

[現在地名]貝塚市堀一―三丁目・堀・津田南つだみなみ

貝塚寺内の北東隣の南郡の村で、集落は同寺内の東約一キロにある。江戸時代中頃以後、紀州街道沿いに貝塚寺内から町場が延伸し堀新ほりしん町を形成。中世は麻生あそう郷に属し、文明一五年(一四八三)七月日付和泉国衙分目録(八代恒治氏旧蔵文書)に「麻生郷ほり廿石 はふ」とみえ、天文二一年(一五五二)一二月二八日の善春房田地売券(中家文書)によると、「あそうはさマ善春坊」が津田の左衛門の口入れで、「麻生郷内堀村領きつねハさま」の田地を紀伊根来寺定春院に売却している。


堀村
ほりむら

[現在地名]松原市天美南あまみみなみ一―五丁目

西除にしよけ川右岸にあり地形は平坦。丹北郡に属し、北は池内いけうち村。文禄年間(一五九二―九六)は、かご池北側にある字籠池下かごいけしたに一九戸あったにすぎないという(大阪府全志)。寛保三年(一七四三)までの領主の変遷は田井城たいじよう村に同じ。宝暦八年(一七五八)以降丹南藩領。慶長一七年(一六一二)水割符帳(田中篤家文書)に村名がみえ、狭山さやま(現南河内郡狭山町)大樋おおひ筋から取水していた。水懸り高三九三石余。


堀村
ほりむら

[現在地名]日高町堀

府市場ふいちば村・しん村の北に位置する。江戸時代の領主の変遷は天保七年(一八三六)までは宵田よいだ村に同じ。同年幕府領となり(「御用部屋日記」など)、幕末に至る。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高四三六石余。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高四五六石余(うち一八五石余は畑高)。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高四三六石余。


堀村
ほりむら

[現在地名]西脇市堀町

和布わぶ新田村の北東、加古川中流域東岸の自然堤防上に位置する。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)比延ひえ本庄の南限として「ホリクチ(堀口)」がみえるが、これは当地のことと推定される。慶長国絵図に村名がみえる。江戸期の領主の変遷は大垣内おおがち村に同じ。寛永一六年(一六三九)の免状(堀町有文書)によると高一六七石余。正保郷帳では田方一一八石余・畑方四八石余。延宝五年(一六七七)検地帳(堀町有文書)では高一七八石余・反別一七町余、小物成は山年貢銀一九匁・鉄砲役銀三匁・川役銀一匁余・野藪役銀三分。寛政二年(一七九〇)の村明細帳(同文書)によれば田高一〇七石余・反別八町余、畑高七一石余・反別九町余、氏神は犬次いぬつぐ大明神。


堀村
ほりむら

[現在地名]武生市堀町・小谷こたに

丹生山中を流れる天王てんのう川上流の谷間の村。中世は山干飯やまかれい保の地。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高三二六・二三三石余、先高二二五石余・出分一〇一石余。正保郷帳によると田方二九八石余・畠方二八石余。元禄郷帳から小谷村九六・四石が分離し、当村は山干飯堀村二二九・八三四石と記される。「越前国名蹟考」は「同郡の内安居郷に堀村有て紛らはしき故なるべし」とする。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領。


堀村
ほりむら

[現在地名]水戸市堀町・新原しんはら一―二丁目・石川いしかわ一丁目・同四丁目

水戸城下の西に位置し、那須街道の南側にある。村の北東部は上市うわいち台地の西端にあたり、西南に向かって徐々に低地となる。北は田野たの飯富いいとみ台渡だいわたり三村。

古くは全隈またぐま郷に属し、江戸氏の支配下にあった。「水府地理温故録」の水門みずもん町の項に「江戸家に仕へし輩」として「堀村の館主篠原和泉守」の名がみえ、同書の「藤柄並松の事」の項には「此地は江戸氏滅却之時(中略)江戸家之属臣篠原氏堀村之住也谷田部某坂戸に住す等、其外大勢打死せし地なり」とみえる。正保三年(一六四六)の村替で宍戸藩領から水戸藩領になり、元禄郷帳に「堀村」とある。


堀村
ほりむら

[現在地名]輪島市堀町・新橋通しんばしどおり

鳳至ふげし町の西、鳳至川・河原田かわらだ川の合流点西側平地に立地。正保郷帳に村名がみえ、高一三八石余、田方七町余・畑方二町二反、新田高六二石余、田方三町七反余・畑方四反。承応三年(一六五四)の村御印の高一七三石余、免五ツ二歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二〇〇石、免六ツ、小物成は山役三九匁(三箇国高物成帳)。享保一八―一九年(一七三三―三四)河井かわい町と川崩ぬけ場(当村では河崎・いささ場、河井では湧田・小河原田とよぶ)について相論が起こった。


堀村
ほりむら

[現在地名]婦中町堀

神通川中流左岸と井田いだ川中流右岸の間に位置し、北は中名なかのみよう村、南西は清水島しみずじま村。当地は神通・井田両川の扇端部にあたるため、伏流水が噴出したので名付けられたと考えられる(婦中町史)。正保郷帳では道場どうじよう村・清水島村福田ふくだ村を合せて高九六九石余、田方六一町七反余・畑方二町九反、新田高一一八石余。享保六年(一七二一)の高一九七石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高一九七石余・定免三ツ一歩六厘、新田高二五石余・平均免一ツ一歩二厘余、小物成は鮎川役一二匁六分二厘・鱒川役一匁一分五厘・鮭川役五匁四分・川原役二匁三厘(高物成品々手鏡)


堀村
ひぼりむら

[現在地名]春日部市樋堀

牛島うしじま村の西に位置する。西は八町目はつちようめ村。村の西側を古利根川が流れる。葛飾郡松伏まつぶし領に属した(風土記稿)八町目村から牛島村を経て金野井かなのい(現庄和町)へ通ずる道が通る。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(田園簿・改革組合取調書など)。田園簿では高五一石余(皆畑)。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施され、寛延二年(一七四九)には新田検地が行われたという(「風土記稿」など)。日光道中粕壁かすかべ宿の助郷村であった(「村鏡類諸書物留書」中島家文書)


堀村
ほりむら

[現在地名]舞鶴市字堀

池内いけうち谷を西流する池内川が流路を北にとる屈曲点にあり、集落は山を背に北に向かって位置する。農業中心の村である。昔から住みよい村とされ、里謡に「一堀、二女布、三十倉」という。

慶長検地郷村帳に高一八〇・三三石「堀村」とみえ、土目録では一八〇石余、内訳は田方一六八石余、畑方一一石余。


堀村
ほりむら

[現在地名]福井市北堀きたぼり

恐神おそがみ村の南西、集落は未更毛みさらげ川が日野川に合流する付近の北岸に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では安居あご保の地に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方四七石余・畠方五五石余。福井藩領であったが、正保二年(一六四五)から享保六年(一七二一)まで松岡藩領。明治初年、北堀村と改称。


堀村
ほりむら

[現在地名]柏崎市堀

東は軽井川かるいがわ村、西は新道しんどう村、南は南下のうげ村。近世の支配は柏崎町と同じ。正保国絵図に高四五〇石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では本田五〇二石三斗余のほかに新田二ヵ所で計一一石六斗余。同年の検地帳(柏崎市立図書館蔵)では本田三六町六反余・本畑屋敷四町五反余、屋敷三四筆。軽井川村との地境に山谷やまや(屋)新田がある。


堀村
ほりむら

[現在地名]揖斐川町小島こじま

野中のなか村の東、揖斐川右岸に立地する。天正一八年(一五九〇)一月九日の五ヶ村百姓中検地覚(粟野国雄氏所蔵文書)に村名がみえ、大枡量り一八四俵三斗八升が京枡に改められ、高四四石余の定米になっている。同一九年と推定される二月二日の豊臣秀吉朱印状(阿子田文書)によれば当村一六五石余などが阿子田家久に与えられている。


堀村
ほりむら

[現在地名]彦根市堀町

宇尾うお村の南、犬上いぬかみ川左岸に位置。慶長高辻帳に村名がみえ、高五二三石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で四ツ五分。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数三一六、うち寺社方七。真宗大谷派妙徳みようとく寺がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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