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二条為定 にじょう ためさだ

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美術人名辞典の解説

二条為定

南北朝時代の歌人。為通の男。8才で父を失い、叔父為藤の養子となる。のち出家し、法名を釈空という。後醍醐天皇に近任し、『続後拾遺集』の撰者となった。のち足利尊氏に親近し、勅により『新千載集』を奏覧した。延文5年(1360)歿、68才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

二条為定 にじょう-ためさだ

1293-1360 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう),歌人。
永仁(えいにん)元年生まれ。父は二条為道。母は飛鳥井(あすかい)雅有の娘。「続(しょく)後拾遺和歌集」を正中(しょうちゅう)2年完成。南北朝分裂後,近侍した後醍醐(ごだいご)天皇にしたがわず京都にとどまり,「新千載和歌集」を撰した。歌は「玉葉和歌集」などにある。正二位,権(ごんの)大納言。延文5=正平(しょうへい)15年3月14日死去。68歳。家集に「為定集」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

二条為定

没年:延文5/正平15.3.14(1360.3.31)
生年:永仁1(1293)
鎌倉時代後期,南北朝時代の歌人。父は左中将為道,母は飛鳥井雅有の娘。正二位権大納言に至る。文和4/正平10(1355)年に出家。法名は釈空。文保2(1318)年『文保百首』,貞和2/正平1(1346)年『貞和百首』などに出詠。叔父為藤が勅撰集の選なかばで没したのち,その作業を引き継いで,『続後拾遺和歌集』を完成。晩年には,『新千載和歌集』の選者となるなど,歌道家二条家の中核を担った。家集『大納言為定集』は2系統あるが,ともに後人の編集によるもの。歌論書『為定口伝』を著したが,現在伝わっていない。<参考文献>井上宗雄『改定新版 中世歌壇史の研究/南北朝期』

(加藤睦)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

二条為定
にじょうためさだ
(1293?―1360)

鎌倉末・南北朝期の歌人。二条為道(為世(ためよ)の子)の子。母は飛鳥井雅有(あすかいまさあり)の女(むすめ)。早く父を失い、叔父為藤の養子となる。1324年(正中1)『続後拾遺(しょくごしゅうい)集』撰定(せんてい)中に為藤が没すると、後任に末子為冬を推す為世と一時対立したが、結局撰者(せんじゃ)となって同集を完成。南北朝分裂後は東宮時代から近侍した後醍醐(ごだいご)帝に従わず京都に残り、南朝歌人と連絡して為世没後の二条家をまとめ、京極(きょうごく)派全盛の『風雅集』時代には不遇であったが、やがて足利(あしかが)将軍尊氏(たかうじ)の信任を得て『新千載(せんざい)集』を撰(えら)ぶ。一方、南朝の宗良(むねなが)親王(従兄弟(いとこ))や北朝の重鎮二条良基(よしもと)とも親しく、多くの門弟を育てて二条家の地位を守った。60年(正平15・延文5)3月14日没。歌風は崇高長大で巧緻(こうち)でもあると良基(近来風体抄)が評した。家集と題するものは二系統あるが、いずれも室町時代または江戸初期に『明題和歌全集』を基として撰ばれたもので、多少とも他人の詠を混入している。[福田秀一]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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