日本大百科全書(ニッポニカ) 「二条為定」の意味・わかりやすい解説
二条為定
にじょうためさだ
(1293?―1360)
鎌倉末・南北朝期の歌人。二条為道(為世(ためよ)の子)の子。母は飛鳥井雅有(あすかいまさあり)の女(むすめ)。早く父を失い、叔父為藤の養子となる。1324年(正中1)『続後拾遺(しょくごしゅうい)集』撰定(せんてい)中に為藤が没すると、後任に末子為冬を推す為世と一時対立したが、結局撰者(せんじゃ)となって同集を完成。南北朝分裂後は東宮時代から近侍した後醍醐(ごだいご)帝に従わず京都に残り、南朝歌人と連絡して為世没後の二条家をまとめ、京極(きょうごく)派全盛の『風雅集』時代には不遇であったが、やがて足利(あしかが)将軍尊氏(たかうじ)の信任を得て『新千載(せんざい)集』を撰(えら)ぶ。一方、南朝の宗良(むねなが)親王(従兄弟(いとこ))や北朝の重鎮二条良基(よしもと)とも親しく、多くの門弟を育てて二条家の地位を守った。60年(正平15・延文5)3月14日没。歌風は崇高長大で巧緻(こうち)でもあると良基(近来風体抄)が評した。家集と題するものは二系統あるが、いずれも室町時代または江戸初期に『明題和歌全集』を基として撰ばれたもので、多少とも他人の詠を混入している。
[福田秀一]