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藤原四家の一つ。不比等(ふひと)の長男武智麻呂(むちまろ)の別称。平城宮の南に武智麻呂の邸宅が所在したことにちなみ,子孫も南家を称する。反乱をおこして敗死した仲麻呂(恵美押勝),「続日本紀」編纂にあたった継縄(つぐただ)らを輩出。伊予親王事件などで衰えるが,伊東氏・土肥氏らの坂東武士団は武智麻呂の三男乙麻呂の後裔。
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[平安時代]
光仁天皇に続いて立った壮年の桓武天皇は,784年(延暦3)に長岡京,794年には平安京への遷都を断行し,前代以来の蝦夷征討も推進するなどの積極的な政策をとり,久しぶりに天皇主導の時代となったが,その後宮にはやはり藤原氏から皇后として良継の娘の乙牟漏(おとむろ)(平城,嵯峨の母),夫人として百川の娘の旅子(淳和の母)らが送りこまれていた。もっとも藤原氏もこのころになるとかつての不比等とその4子の時代のようなまとまりはなく,いわゆる南家(武智麻呂),北家(房前),式家(宇合),京家(麻呂)の4家に分かれ,それぞれ栄達を競っていた。このうちで南家は仲麻呂が出たために打撃を受け,式家は乙牟漏や旅子の従兄弟にあたる種継が桓武天皇に信頼されて長岡京造営を指揮している最中に暗殺され,また種継の子の薬子(くすこ)・仲成兄妹は薬子の変を起こし,京家では麻呂の子の浜成が桓武即位の当初に大宰府へ追放されたあと活躍する人材がなく,光仁朝の永手以後は目だたなかった北家から内麻呂が出て平城朝に右大臣となり,続く冬嗣,良房,基経の3代で他家を完全に圧倒するに至った。…
…豊成,仲麻呂の父。南家の祖。平城京の左京の私邸が房前の北家に対し南にあったので南卿,南家とよばれた。…
※「南家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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