日本大百科全書(ニッポニカ) 「五十嵐家」の意味・わかりやすい解説
五十嵐家
いがらしけ
幸阿弥(こうあみ)家と並び称せられる蒔絵師(まきえし)の家系。室町時代、足利義政(あしかがよしまさ)に仕えた初代信斎(しんさい)はその諸調度に蒔絵を施し、当代の名手とうたわれ、後世その作品が東山殿(ひがしやまどの)御物と称せられて、大いに珍重された。その子2代甫斎(ほさい)は豊臣(とよとみ)秀吉に仕えている。3代は甫斎の子道甫(どうほ)(?―1678)で、寛永(かんえい)年間(1624~1644)に加賀藩主前田利常(としつね)に招かれ金沢に赴き、加賀蒔絵の基礎を築いた。五十嵐蒔絵の様式、作風は、これら3代でよく現れているが、その特徴は空間を広くとり、漢画と大和(やまと)絵を対照的に取り入れたり、細い雲形に金銀の印金(いんきん)を細かに置いたりというものである。道甫の代表作、秋野蒔絵硯箱(すずりばこ)にはそれがよく示されている。4代は嗣子(しし)の喜三郎が継ぎ、2代道甫を名のった。彼は幸阿弥清三郎の弟で、五十嵐家の養子となり、加賀に永住して藩の細工所でも業を行った。以後の後継者には門人の庄兵衛(しょうべえ)が代々これにあたり、また、初代道甫とともに京都より赴いた清水(しみず)九兵衛も主要な門人で、彼の家系もともに加賀蒔絵を支えた。