五条通(読み)ごじょうどおり

精選版 日本国語大辞典 「五条通」の意味・読み・例文・類語

ごじょう‐どおり ゴデウどほり【五条通】

京都市東西通りの一つ。東山区西大谷門前から、西は葛野(かどの)西通まで。古くは現在の松原通りを呼んだが、天正年間(一五七三‐九二)の五条大橋の移築に伴い、旧六条坊門通りを称した。五条橋通。橋通。

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日本歴史地名大系 「五条通」の解説

五条通
ごじようどおり

延暦一三年(七九四)平安京開設の際に開かれた六条坊門小路にほぼ該当。「坊目誌」は「東は清水寺の西南、字延年寺ノ辻子、俗に鳥辺山と称すに起り、東山通大谷門前より街路を為し、西は大宮西入に至り、葛野郡大内村に接す。(中略)文明以来荒廃せしが、天正中再開する所なり。堀川以西は本圀寺境内にして通ぜざりしか。明治七年同境内を貫通し大宮に達す」と記す。

明月記」元久二年(一二〇五)一月一〇日条には、「天晴、昼南方有火、久不滅、自六条坊門町及六条烏丸、中院通光卿西築垣覆焼、教成卿宅焼」と、火災の記述がみえるが、当時は繁華な地ではなかったようだ。

五条通
ごじようどおり

[現在地名]旭川市五条通

明治三二年(一八九九)に新設された町。明治二五年一月旭川村市街予定地の区域設定では「へ通」(一―一三丁目)、同二七年四月の区域変更では「り通」とされた。同二八年二月の字名変更により川添町かわぞいちようとなる。同三一年の旭川市街図(市立図書館蔵)に川添町とみえる。同三二年八月の字名変更で五条通が設定され、昭和四年(一九二九)四月の町名変更で三―二三丁目が置かれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「五条通」の意味・わかりやすい解説

五条通
ごじょうどおり

京都市を東西に通ずる道路。平安京の五条大路は現在の松原通にあたるが、牛若丸と武蔵坊(むさしぼう)弁慶の伝説で知られた五条橋を、豊臣(とよとみ)秀吉が六条坊門小路の鴨川に移したので、これが五条通となった。第二次世界大戦中、五条通は建物の強制疎開によって拡張され、現在では東は国道1号、西は国道9号に通じる幹線道路である。鴨(かも)川を渡る五条大橋の東詰に京阪電鉄京阪本線清水五条駅、また烏丸(からすま)通と交わる地点に市営地下鉄烏丸線五条駅がある。

織田武雄

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「五条通」の意味・わかりやすい解説

五条通
ごじょうどおり

京都市の市街地南部を東西に通じる街路。東大路に面する西大谷 (大谷本廟) の門前から西は桂川左岸の西京極にいたる。第2次世界大戦中に拡張され,幅 40~50m (JR山陰本線以西は 22m) の大通りとなった。現在は国道1号線および9号線と重なり,自動車道として重要。なお,平安京の五条通は現在の松原通であり,現在の五条通は平安京の五条と六条のちょうど中間にあたった。豊臣秀吉により,鴨川の五条大橋が現在の五条 (当時の六条坊門) に移された際,街路名も改められた。

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