五条大橋(読み)ごじょうおおはし

精選版 日本国語大辞典 「五条大橋」の意味・読み・例文・類語

ごじょう‐おおはし ゴデウおほはし【五条大橋】

京都市下京区東山区との境を流れる鴨川にかかる橋。平安京の六条坊門大路にあたる五条通りが通じる。五条の橋。

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デジタル大辞泉 「五条大橋」の意味・読み・例文・類語

ごじょう‐おおはし〔ゴデウおほはし〕【五条大橋】

京都市の鴨川を五条通りが横切る所に架かる橋。平安京の五条(現在の松原通り)にあったが、のち、豊臣秀吉が現在の場所に移した。牛若丸弁慶伝説で知られる。

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日本歴史地名大系 「五条大橋」の解説

五条大橋
ごじようおおはし

鴨川に架かる橋で、五条通(旧六条坊門小路)の東に位置。ただしこれは天正一八年(一五九〇)以降のことで、古くは現松原まつばら通が五条大路にあたり、その東末に架けられた橋(現松原橋辺り)を称した。伝説にいう牛若丸と弁慶の出会いの五条橋はこの旧橋ということになる。

旧五条橋は清水きよみず橋・勧進かんじん橋とも称されたが、清水橋の名は「百錬抄」保延五年(一一三九)六月二五日条に「清水寺橋供養也」とみえるように、清水寺(現東山区)参詣路にあたっていたことによる名称。「梁塵秘抄」には「何れか清水へ参る道、京極くだりに五条まで、石橋よ、東の橋詰四つ棟六波羅堂」とあって、平安末期には石橋が架けられていたらしい。「沙石集」にも参籠を終えた女がその帰り道、五条橋で大番衆の奥州武士に会う話を載せる。また「明月記」建仁二年(一二〇二)五月一三日条にも「参八条殿浄衣、御禊陪膳了、出御、甚雨洪水、東洞院北行、五条東自清水橋クヽメ地路也」とあり、日吉ひえ(現大津市)参詣のためにこの橋を渡り、東山を越えている。

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改訂新版 世界大百科事典 「五条大橋」の意味・わかりやすい解説

五条大橋 (ごじょうおおはし)

京都,鴨川の五条通(1589年以前は松原通)にかかる橋。古くは清水寺への参詣路であったため清水橋とも呼ばれ,《百錬抄》保延5年(1139)6月25日条に〈清水寺橋供養也〉とみえる。また架橋費用を清水寺僧侶が勧進してまわったことから勧進橋の名もある。1408年(応永15)には慈恩なる者が浄財を提供,翌年春,長さ86丈余,幅24尺余の橋を完成させたともみえる(《本朝高僧伝》)。1589年(天正17),方広寺大仏殿造営に際し現在地(旧,六条坊門,現,五条通)に移転。造営奉行には増田長盛があたった。当初は大仏橋とも呼ばれたが,1653年(承応2)ころより五条橋と改められたという。慶長末年ころの洛中洛外図屛風には木造で擬宝珠を備えた五条大橋が描かれるが,17世紀中ごろ(一説に1645年)には石柱に改造されている。1711年(正徳1)の朝鮮通信使来日に際する修復記録では,長さ64間,幅4間8寸とある(《京都御役所向大概覚書》)。以後数度架け替えられているが,その美しい姿はにじのようで〈一の京観〉とされたという(《京都坊目誌》)。明治初年には廃仏毀釈のあおりをうけ擬宝珠はとりのぞかれ木造白色のペンキ塗りとなったが,1877年に旧観に復したといわれる(同)。
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百科事典マイペディア 「五条大橋」の意味・わかりやすい解説

五条大橋【ごじょうおおはし】

京都の鴨川(賀茂川)に架かる橋。五条通にあるためこの名があるが,現在の五条通はかつての六条坊門小路にあたり,伝説にいう牛若丸弁慶の出会いの橋である中世までの五条橋は現在の松原通(旧五条大路)に架かっていた(現松原橋あたり)。通名の変更と橋の移設は,1589年の方広(ほうこう)寺大仏殿の造営に際して豊臣秀吉が命じたものという。旧五条橋は清水(きよみず)寺参詣路にあたるため清水橋ともよばれ,破損修理が清水寺の僧侶の勧進(かんじん)によって行われていたため勧進橋の称もあった。12世紀前半には既に架橋されており,《梁塵秘抄》には石橋として歌われている。

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