弁慶(読み)ベンケイ

デジタル大辞泉 「弁慶」の意味・読み・例文・類語

べんけい【弁慶/辨慶】


[?~1189]鎌倉初期の僧。幼名、鬼若。号、武蔵坊むさしぼう義経記吾妻鏡平家物語などによれば、熊野の別当の子で、兄頼朝と不和になり奥州に落ちる源義経に従い、安宅あたかの関での難を救い、衣川の戦いで全身に矢を受けて立ちながら息絶えたと伝えられる。能・歌舞伎・浄瑠璃などに英雄豪傑として描かれる。
富田常雄の時代小説。昭和26年(1951)から昭和30年(1955)にかけて「東京新聞」に連載。単行本は、昭和27年(1952)から昭和30年(1955)にかけて全9巻を刊行。

強い者。また、強がる者。「内―」「陰―」
《弁慶が七つ道具を背負った姿、また、衣川の合戦で、体中に矢を射立てられて立ち往生した姿から》道具の名。
㋐竹筒に多くの穴をあけたもので、うちわや台所道具をさしておくもの。
㋑わらを束ね、筒状にしたものを棒の先につけて、風車や柄につけたあめなどをさし、売り歩いたもの。
大尽客の取り巻き。幇間ほうかん
「勘六貴様も―に連れて行く」〈浄・歌祭文
弁慶縞」の略。

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精選版 日本国語大辞典 「弁慶」の意味・読み・例文・類語

べんけい【弁慶・辨慶】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] 鎌倉初期の法師。熊野別当の子。幼名鬼若丸。武蔵坊と称し叡山西塔に住したが、僧行より武事を好み源義経に従って武名を挙げ、義経没落の折、安宅関の危難を救ったこと、衣川の合戦で立ったまま最期をとげたことなどその武勇は、物語、能、歌舞伎などで伝説化された。
    2. [ 二 ] 明治一三年(一八八〇)北海道開拓使がアメリカ合衆国のポーター社から購入したテンダー機関車の名称。現在は鉄道記念物として交通博物館に保存されている。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. 強い者、強がる者のたとえ。内(うち)弁慶、陰弁慶、炬燵(こたつ)弁慶など。
      1. [初出の実例]「弁慶も陰と炬燵は今にあり」(出典:雑俳・柳多留‐三八(1807))
    2. ( [ 一 ][ 一 ]が七つ道具を背負っていた姿、また、衣川の合戦で体中に矢を射立てられて立往生した姿に見立てていう )
      1. (イ) 竹筒に数個の孔をあけ、団扇(うちわ)、また、種々の勝手道具などを挿しておく具。
      2. (ロ) あぶった魚を貫き通した串などを挿しておく一尺(約三〇センチメートル)余りの巻藁。〔物類称呼(1775)〕
      3. (ハ) 蝶々・風車などの玩具を売り歩くのに、それらを挿し立てるための竿の頭に藁を束ねたもの。
        1. [初出の実例]「弁慶へ忠信を差す王子道」(出典:雑俳・柳多留‐一〇九(1829))
    3. ( 遊里で、大尽客を判官(ほうがん)と称するところから、それに忠節を尽くす者の意とも、酒席に出るとき、鳴り物・道具など持参したものを、弁慶の持つ七つ道具に見立てていうとも ) 大尽客の取り巻き。幇間(ほうかん)。多く上方の遊里で用いた語。
      1. [初出の実例]「茶屋のあたりの悪き所は、判官(きゃく)へいろいろと讒(こみづ)をいふて、余宿(ほか)へ導く辨慶衆も有よし」(出典:洒落本・秘事真告(1757頃)嶋の内の相)
    4. べんけいじま(弁慶縞)」の略。
      1. [初出の実例]「殊に気のついた遣物(つかひもの)で、こび茶(ちゃ)辨慶(ベンケイ)の細かいと、あらいとの紬が一反づつ」(出典:人情本・恋の若竹(1833‐39)中)

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改訂新版 世界大百科事典 「弁慶」の意味・わかりやすい解説

弁慶 (べんけい)

源義経の郎従。武蔵坊と称する。没年は衣川の合戦で義経に殉じたとする伝承にもとづいて1189年(文治5)とされる。《吾妻鏡》や《平家物語》にその名が見えるので,実在の人物と考えられているが,詳しくは不明。その説話や伝承は,《義経記》をはじめ室町時代の物語草子,謡曲,幸若舞などに見え,各地の口碑伝説としても伝えられている。江戸時代になると,歌舞伎,浄瑠璃などの登場人物となってさまざまに脚色され,明治以後も唱歌に歌われるなど,弁慶ほど人々から親しまれた英雄豪傑も少ない。弁慶がやや具体的に描かれはじめるのは《源平盛衰記》だが,《義経記》(ぎけいき)になると,その出生から死に至るまでの物語が詳しく記されるようになる。

《義経記》によると,弁慶は,紀伊の熊野の別当〈弁せう〉が二位大納言の姫君を強奪して生ませた子とされる。母の胎内に18ヵ月いて,生まれたときには2~3歳の子どものようで,髪は肩をおおうほど伸び,奥歯も前歯も大きく生えていた。父は鬼神だと考えて殺そうとするが,母の哀願で助けられ,父の妹が鬼若と名づけて京都で養育する。6歳のとき,疱瘡(ほうそう)にかかり色が黒くなり,髪も生まれたときの垂髪のままで伸びず,元服もさせられずに比叡山西塔の桜本の僧正〈くわん慶〉にあずけられるが,たびたび乱行を働き放逐される。山を下りるにあたって,みずから剃髪して,父の〈弁〉と師の〈慶〉とをとって弁慶と名乗る(自剃(じぞり)弁慶伝説)。その後,諸国修行に出て四国の霊山をめぐり,播磨の書写山に身を寄せるが,ここでも事を起こして放逐される。京都に出て千本の太刀を奪う悲願を立て,あと一本というとき,五条天神で義経にあい,翌夜,清水観音境内で義経の太刀を奪おうとするが,逆に義経に屈して君臣の契約を結ぶ(場所が五条橋となって,橋弁慶伝説)。それ以後,弁慶は義経の忠実な部下として活躍する。なかでも,義経西国落ちのとき,海上に現れた平家の怨霊を祈り鎮め(船弁慶伝説),北国落ちには渡しや関所(安宅(あたか)の関がとりたてられて,安宅伝説)で義経を無事に落とすため知謀をめぐらし,衣川の合戦では敵の矢を満身に受けながら,立ったまま死ぬ(立往生伝説)などの説話が注目される。

《義経記》以外でも《武蔵坊弁慶絵巻》《弁慶物語》,御伽草子の《自剃弁慶》《橋弁慶》があって,これらでも弁慶の父を熊野別当,その生地を熊野としている。《武蔵坊弁慶由来》(静嘉堂文庫)所引の《弁慶願書》(以下《願書》という)では,生地を出雲とし,父を山伏姿の天狗,母を紀伊の田那部の誕象の娘としている。誕象は源平合戦のころ田辺(たなべ)にいた熊野別当湛増のことと考えられるから,出雲系の弁慶誕生譚でも弁慶の出自を熊野と結びつけていることになる。熊野には御伽草子《熊野本地》のような山中誕生譚が別にあって,熊野の山伏や巫女(みこ)たちが熊野信仰宣伝のために利用していたと考えられている。弁慶の誕生譚も同根の山中誕生譚で,《義経記》でも愛発(あらち)山のことや亀割(かめわり)山での義経の若君の誕生のことなど,くりかえし山中誕生譚が現れるのも,熊野との関係を暗示しているもののようである。ほかにも熊野との関係を暗示するものがたくさんあって,これらから推して弁慶の物語は,熊野の山伏や巫女の間で成立し,彼らによって全国にひろめられた物語ではないかと考えられている。

 なかでも《義経記》は,弁慶の母が五条天神に参籠し,辰巳(南東)の風にあたって病気となり,熊野権現に願をかけて平癒したとしていて,義経と弁慶が初めてあうのが五条天神であり,鬼一法眼(きいちほうげん)伝説にかかわりながら五条天神が出てくるなど,五条天神との関係が密接である。これらから,熊野に奉仕する巫覡(ふげき)の徒は五条天神と交流を持っていて,熊野で成立した弁慶の物語が五条天神を介して流入したのが《義経記》の弁慶譚ではないかと考えられている。

 また,熊野新宮地方の伝説には弁慶の母を鍛冶屋の娘とするものがあり,《願書》では弁慶の母がつわりに鉄を食したので,弁慶は色が黒く,全身が鉄でできているが,一ヵ所だけが人肉であるなどとされているなど,弁慶の物語の成立には,山伏とも関係の深い鍛冶の集団もかかわったのではないかと推測されている。《弁慶物語》などでも,弁慶は太刀,飾りの黄金細工,鎧(よろい)などを五条吉内左衛門,七条堀河の四郎左衛門,三条の小鍛冶に作らせていて,炭焼・鍛冶の集団の中で伝承されたとする金売吉次伝説との交流を思わせる。

 鍛冶の集団は毘沙門天(びしやもんてん)を信仰していたから,《義経記》の中で鞍馬(くらま)寺が大きな比重を占めるのも,鍛冶の集団の中で伝承され成長した物語が《義経記》の中に流れ込んだためとも考えられる。また,山伏と鍛冶との交流も考えられるが,問題はそれらの個々の伝承者を離れて,弁慶が典型的な民間の英雄として,その像がどのような種類の想像力によって生成されたかを解明することであろう。

弁慶の誕生譚に関するほとんどの伝承は,鬼子(おにご)として生まれ,山中に捨てられたとするモティーフを備えている。鬼子は,《台記》や《日葡辞書》にも見られるように,長い髪の毛,つまり童髪(わらわがみ)をし,歯が大きく,または二重に生えている者のことをいうが,他の説話や伝説でも,鬼子は殺されるか捨てられるかするのが普通である。《義経記》でも父の〈弁せう〉が生まれたばかりの弁慶を〈さては鬼神ござんなれ〉と言っているように,鬼子は神の子であり,まがまがしい鬼神と考えられ,その邪悪を避けるために,流したり殺したり捨てたりなどするわけである。《願書》では島に流されることになっている。生まれた子が鬼神と考えられたところから,母の胎内に長期間いたという異常誕生や山中誕生のモティーフを伴い,捨てられた子が山中で狐狼野干(やかん)などの動物に養育されたというモティーフを伴うことにもなる。このことが現実的あるいは歴史的文脈の中で,鬼の子孫と考えられていた童子のイメージを与えられたり,山伏のイメージを与えられたりする。その出自が神であるところから,天狗とか天児屋(あめのこやね)命の末裔とか熊野別当の子というように,ある種の貴種とされる。弁慶は比叡山や書写山でもいさかいを好む者とされ,橋弁慶伝説のように悪を好む者とされるのも,鬼神の邪悪の説話的な表現であろう。以上の諸点は捨子(すてご)童子がその語源といわれる酒呑(しゆてん)童子や伊吹童子,茨木童子,坂田金時と同じ種類の想像力で作り上げられているといえる。

《願書》では,流された島(松江市の中海の弁慶島といわれる)から海を埋めて道を作り陸に帰って来たと伝えられるが,また比叡山をはじめ諸国には釣鐘を弁慶が運んだとする伝説や,弁慶の足跡石の伝説がある。また奈良県には,天神山,畝傍(うねび)山は弁慶が棒でかついでいた〈もっこ〉の土が落ちてできたとする伝説がある。この伝説は地方によっては百合若(ゆりわか)大臣,酒呑童子,だいだらぼっちが作ったとされているので,弁慶伝説の中には巨人伝説の要素も隠されているといえる。すなわち,荒ぶる神の子が山や国土を作る話が,弁慶に仮託されて伝説化されたものと理解できる。

 俗説では弁慶は七つ道具を持つとされ,弁慶像でも七つ道具を持つものがある。《義経記》では,弁慶の持ち物として大刀,刀,鉞(まさかり),薙鎌(ないがま),熊手,櫟(いちい)の木を鉄伏せにした棒(撮棒(さいぼう)),幸若舞《高館(たかだち)》では,箙刀(えびらがたな),首搔き刀,小反刃(こそりは)などがあげられている。《太平記》には七つ道具の語があり,《狂言記》には朝比奈の七つ道具が出てくるが,弁慶の七つ道具という語が文献に出てくるのは江戸時代になってからのようで,その種類も一定しない。《鬼一法眼三略巻》では弁慶の七つ道具は熊手,薙鎌,鉄の棒,木槌,鋸,鉞,刺股(さすまた)となっており,川柳では大工道具だったとされ,歌舞伎で盗人の道具とする作品もあり,国生みをする巨人という点から考えると,七つ道具は本来農耕を基本とする村落生活に必要な道具を集めたものではないかと思われる。それが鍛冶集団との関係でその集団の製作物と解されたり,山伏との関係で特に鉞が,また鬼一法眼のような陰陽師的な者との関係で撮棒が強調されるようになったものと考えられる。

弁慶像を作り上げている想像力は善悪両面を持つ両義的な荒ぶる神のイメージに媒介されているが,その悪の面は弁慶の誕生から修行時代,太刀奪いの伝説などに現れており,義経に臣従してからは善の面が強調され,新しい御子神としての義経に対して弁慶は傅(ふ)の役割を果たしていると理解できる。橋弁慶伝説はふつう弁慶が千本の太刀を奪う願を立てることになっているが,《武蔵坊弁慶絵巻》などは義経の千人斬りとなり,為手(して)と受け手とが逆転しており,鬼一法眼の一党や熊坂長範,由利太郎らの盗賊を退治し,陵(みささぎ)の館を焼き払うなどの中にも,義経が荒ぶる若神のイメージで作られていることがわかる。

《源平盛衰記》には弁慶を鳶(とび)のようなやせ法師と形容していて,ここでもその伝承に山伏が介在しているらしいことがわかるが,弁慶が黒装束をつけているだけでなく膚色も黒かったらしいことがうかがえる。他の伝承では,弁慶が黒くなった理由を疱瘡にかかったためとも,母がつわりに鉄を食したためとも合理化されている。日本における色彩のシンボリズムはまだ十分にわかっていないが,さまざまな弁慶のイメージは黒のシンボリズムの中に包摂されるようで,常軌を逸した者,まがまがしい者,力のある者といったトリックスター的なところがあり,すべてのものを始源に戻すような力を持っているらしい。江戸時代になるとこのような民間信仰の神の観念と結びつくような民俗的想像力が後退して,封建的倫理を背景とした忠臣としての弁慶のイメージが強調され,弁慶が単に勇猛,武勇,知謀,忠義などを表す言葉ともなった。〈弁慶の泣き所〉の弁慶は勇猛な者の意で用いられて,ふつうは向う脛(むこうずね)をさし,〈弁慶縞〉の弁慶は荒々しさを意味している。進退きわまることを〈弁慶の立往生〉というが,これはいわゆる立往生伝説によったもので,勇猛の意味で用いられている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「弁慶」の意味・わかりやすい解説

弁慶
べんけい

伝説色の濃い豪勇の法師。武蔵坊(むさしぼう)と称し、源義経(よしつね)の家来として活躍した。『吾妻鏡(あづまかがみ)』文治(ぶんじ)元年(1185)11月3日と6日の条に、源頼朝(よりとも)の追討を避けて京都を落ちる源行家(ゆきいえ)・義経の従者の1人に「弁慶法師」「武蔵房弁慶」とみえる。そのほか『平家物語』『源平盛衰記』などに名がみえるが、その生涯は明らかでない。『義経記(ぎけいき)』などによると、熊野の別当(べっとう)の子で、鬼若と名づけられ、比叡(ひえい)山の西塔(さいとう)で修行した。山を抜け出してのち播磨(はりま)国の書写(しょしゃ)山(兵庫県姫路市)を焼く。洛中(らくちゅう)に出て他人の太刀(たち)を奪い取り、1000本目に義経の太刀をねらったが果たせず、義経と君臣の契約を結び、以後彼に従う。ついに奥州へ落ちた義経は1189年(文治5)自害するが、このとき弁慶は立往生を遂げたといわれる。謡曲『船(ふな)弁慶』『橋弁慶』『安宅(あたか)』、歌舞伎(かぶき)『勧進帳(かんじんちょう)』『弁慶上使(じょうし)』などに英雄的人物として描かれている。

[田辺久子]

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朝日日本歴史人物事典 「弁慶」の解説

弁慶

没年:文治5.4.29?(1189.5.16)
生年:生年不詳
平安末期・鎌倉初期の僧。武蔵坊。源義経の腹心の郎従。その存在は『吾妻鏡』『平家物語』に散見されて確認されるが,詳細は不明。主に室町時代になってからの諸作品(『義経記』『弁慶物語』ほかの室町物語,幸若,謡曲など)に,豪傑として英雄的に描かれる。従って,その生涯は実在を離れ,異常誕生,鬼子,捨子童子,熊野信仰,天神信仰,観音信仰,兵法,鍛冶屋集団,巨人伝説,怪力伝説など,様々な伝承の型,民間信仰,伝説に彩られ,民衆の願望を籠めた,善悪両面を兼備し,諧謔味も交えた人物として成長していく。幼名鬼若。熊野別当の子として熊野に生まれる。出生時にすでに髪,歯が生え揃っていた。幼時に比叡山西塔桜本僧正に預けられるが,乱行を働き,放逐される。そのとき,自ら剃髪して弁慶と名乗る。その後,播磨書写山に籠るが,やはり乱行故に放逐され,京都に出て1000本の太刀を奪う悲願を立てる。最後の1本の持ち主義経に五条天神で出会い,翌日清水観音境内で闘い,主従の契りをなす。以後,義経の平家討伐に尽力し,義経の都落ちのときにも常に従う。大物浦では平家の怨霊を鎮め,各地の関所では危険をくぐり抜け,平泉まで同行し,文治5年の衣川の合戦では立ったまま死ぬ。近世の諸演劇にも取り入れられるが,忠臣としての側面が強調されていく。

(櫻井陽子)


弁慶

室町時代の足利義政のころ,将軍家方の番匠には明星,水銀などの異名を持つ棟梁たちがいたが,弁慶もそうした異名のひとつらしい。長享3(1489)年に初出する。のち家名となる。弁慶家は北野や祇園の大工職を持ち,江戸時代には中井配下に入って御扶持人棟梁家となった。

(永井規男)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「弁慶」の意味・わかりやすい解説

弁慶
べんけい

義経記 (ぎけいき) 』その他の文芸作品や伝説中で活躍する人物。鎌倉時代後期に成立した幕府の史書『吾妻鏡』に武蔵坊弁慶の名が源義経の従者として記されているが,実在の人物としての経歴は確認されていない。『平家物語』や『源平盛衰記』に義経の家来として描かれたのち,『義経記』に弁慶の人物や経歴が詳しく描かれた。それによると父は熊野別当弁昌,母は二位大納言の娘。比叡山で学んだが,抜群の体格,腕力で乱暴を重ねて山を離れ,のち義経の家来となり,文治5 (1189) 年陸奥国衣川で藤原泰衡に攻められて死ぬまで行動をともにした。能の『安宅 (あたか) 』,歌舞伎『勧進帳』などでなじみ深い。

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百科事典マイペディア 「弁慶」の意味・わかりやすい解説

弁慶【べんけい】

平安末・鎌倉初期の僧。生没年不詳。紀伊(きい)国の熊野別当の子といわれ,武蔵坊と号した。源義経の従臣で,安宅(あたか)関で義経を救い,衣川(ころもがわ)の戦で討死したという。《義経記(ぎけいき)》や謡曲(ようきょく)に豪傑として伝わる。
→関連項目五条大橋瀬見[温泉]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「弁慶」の解説

弁慶
べんけい

?~1189.閏4?.-

平安後期の僧。源義経の郎従。武蔵坊と称する。「吾妻鏡」に名がみえるので実在の人物とみられるが,「平家物語」「義経記」などで虚構化されて伝えられ,実像は不詳。熊野別当が大納言の女を強奪して生ませた子で,鬼神のような怪力をもち,幼少から比叡山,四国霊場,播磨の書写山で修行した。寺を追われてのち京都に入って刀狩をしていたが,義経に清水観音境内(のち五条大橋として伝説化)で敗れて臣従。平氏追討・奥州逃避行に従い,各所で知略・怪力によって主君を助け,衣川(ころもがわ)合戦で殉死。以上は「義経記」による伝記だが,室町時代の謡曲・幸若舞(こうわかまい)・物語草子や,江戸時代の歌舞伎・浄瑠璃などでさまざまに脚色され流布した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「弁慶」の解説

弁慶 べんけい

?-1189 平安後期-鎌倉時代の僧。
熊野(くまの)別当の子という。比叡山(ひえいざん)西塔で修行したが,のち源義経の従臣となり,安宅(あたかの)関で義経の危難をすくう。文治(ぶんじ)5年閏(うるう)4月30日衣(ころも)川の戦いで全身に矢をうけ,たったまま死んだという。「義経(ぎけい)記」「弁慶物語」などによって豪傑として伝説化された。幼名は鬼若丸。号は武蔵(むさし)坊。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「弁慶」の解説

べんけい【弁慶】

石川の日本酒。酒名は、義経、弁慶の伝説が残る安宅の地へ先代の娘が嫁いだのをきっかけにつけられたもの。大吟醸酒と本醸造酒がある。平成2、4、7、9、10年度全国新酒鑑評会で金賞受賞。原料米は五百万石、山田錦。仕込み水は白山の伏流水。蔵元の「山本酒造本店」は明治元年(1868)創業。所在地は能美市末寺町。

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旺文社日本史事典 三訂版 「弁慶」の解説

弁慶
べんけい

?〜1189
鎌倉初期の僧兵
源義経の従臣で,武蔵坊と号す。『吾妻鏡』にその名がみえるほか,『平家物語』『源平盛衰記』に活動の一部を記すだけで事績は明らかでない。むしろ室町時代の『義経記』『弁慶物語』などによって国民的英雄・豪傑に創作され知られるようになった。

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動植物名よみかた辞典 普及版 「弁慶」の解説

弁慶 (ベンケイ)

植物。キク科の多年草。サワアザミの別称

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世界大百科事典(旧版)内の弁慶の言及

【嗚呼∥烏滸】より

…またオコなわざは古来から日本の演劇にともなっていたカケアイから来たもので,神楽の人長(にんぢよう)に対する才男(さいのお),田楽のモドキ役,翁に対する黒尉,狂言の大名に対する太郎冠者などの行為にオコをみる説もある。また,《義経記》では武蔵坊弁慶がオコの者と評される部分がたびたびあって,室町時代には何がオコと考えられたかがよくわかる。このオコの者と呼ばれる武蔵坊弁慶の行為を整理してみると《日葡辞書》に記されたオコの者の定義にそのままあてはまるようである。…

【勧進帳】より

…(2)能《安宅(あたか)》の部分の名。関守の疑いを解くため,弁慶(シテ)が即席に案文しながら偽りの勧進帳を読み上げる部分。読物という特殊な形式の曲節で,この部分を独立させて独吟として謡ったり,小鼓または大鼓1人と謡1人が共演する一調という形式で演じたりする。…

【鬼一法眼三略巻】より

…初演番付のおもな配役は,三段目切を竹本政太夫,四段目切を竹本大和太夫。人形では鬼一法眼・鬼若弁慶・一条大蔵を吉田文三郎,清盛・鬼三太を桐竹勘十郎など。題材は《義経記》から鬼一法眼や弁慶関連の項をとり,鞍馬天狗の話なども加えたもの。…

【高館】より

…義経より佐藤兄弟の残したよろいをたまわった鈴木は,たずさえた腹巻の由来を物語り,これを弟の亀井六郎に譲って,翌日の合戦では兄弟ともに奮戦して果てる。弁慶は舞を一番舞って,敵(かたき)の中を斬ってまわるが,やがて痛手を負い,義経と辞世の歌をかわした後,衣川(ころもがわ)のあたりで立往生する。なお,源義経の自害の梶原景時の死を語る《含状(ふくみじよう)》はその続編である。…

【田辺[市]】より

…湊にある闘鶏神社は,源平合戦に際して熊野別当湛増が,いずれに味方すべきか神前で紅白の鶏を戦わせて占ったという話で著名。また弁慶は湛増の子と伝えられ,当市では弁慶の出身地として祭りが行われる。関ヶ原の戦の後,浅野幸長が紀伊に入国,田辺には重臣浅野氏重が配された。…

【橋弁慶】より

…佐阿弥作ともいう。シテは武蔵坊弁慶。ある日弁慶は従者(ツレ)から,最近五条橋にふしぎな少年が現れて人を斬るといううわさを聞き,退治に出かける。…

【船弁慶】より

…後ジテは平知盛の怨霊。源義経(子方)は,兄頼朝との不和から都落ちをするはめになり,武蔵坊弁慶(ワキ)ら小人数を連れて西国に向かう。途中,摂津の大物ノ浦(だいもつのうら)の船宿で,あとを慕ってきた静御前(前ジテ)をさとし,都へ帰らせることにする。…

【弁慶物語】より

…御伽草子。鬼子(おにご)としての弁慶の出生から,御曹司(おんぞうし)義経の供をして奥州へ下るまでの物語。熊野別当弁心が熊野権現の若王子(にやくおうじ)から賜った若一(にやくいち)が,成長して比叡に登山し,乱暴をはたらき,みずから武蔵坊弁慶を名乗る。…

【幇間】より

…宴席で客の座興をとりもつことを業とする男。俗に太鼓持(たいこもち)(略して太鼓)というが,ほかにも弁慶,末社(まつしや),男芸者などの別称が多い。古く《あづま物語》(1614)に〈太鼓持〉の語があるが,詳細はわからない。…

【源義経】より

…義経の逸話や説話は《平家物語》《吾妻鏡》に見えるが,それは義経が武人としてはなばなしく活躍した世盛りの時代を中心としている。《平治物語》には簡略だが義経の生い立ちについて記し,《源平盛衰記》では断片的だが生い立ちや武蔵坊弁慶,伊勢三郎との関係にまで及んでいる。《義経記》では,その世盛りはむしろ省いて,その生い立ちと没落とを中心として,当時,民間に行われていたらしい伝承を,一代記風に集大成している。…

※「弁慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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