大谷本廟(読み)オオタニホンビョウ

デジタル大辞泉 「大谷本廟」の意味・読み・例文・類語

おおたに‐ほんびょう〔おほたにホンベウ〕【大谷本廟】

京都市東山区五条坂にある浄土真宗本願寺派祖廟親鸞遺骨は初め大谷の地に葬られ、文永9年(1272)吉水の北に改葬。慶長8年(1603)この地に移された。西大谷

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精選版 日本国語大辞典 「大谷本廟」の意味・読み・例文・類語

おおたに‐ほんびょうおほたにホンベウ【大谷本廟】

  1. 京都市東山区五条橋東にある親鸞の廟所浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する。山号は龍谷山。慶長八年(一六〇三)大谷から現在地に移した。西大谷。

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改訂新版 世界大百科事典 「大谷本廟」の意味・わかりやすい解説

大谷本廟 (おおたにほんびょう)

浄土真宗の開祖親鸞の墓所。京都市東山区五条橋東にある。俗に西大谷と称する。1262年(弘長2)親鸞が死ぬと,鳥辺野の北,大谷の地に墓がたてられたが,それは1基の墓標に柵をめぐらす簡素なものであった。72年(文永9)大谷の西,吉水の北にある末娘覚信尼の住地に堂を建てて遺骨を移し親鸞の影像を安置した。これを大谷廟堂と称する。77年(建治3)尼は敷地を門弟の共有とし,堂の守護(留守職)は尼の子孫が継ぐよう定めた。その後,尼の次子唯善が留守職の権を奪おうとして堂を破壊する事件があった。第3世留守職覚如は廟堂を寺院化して本願寺と称した。堂は1336年(延元1・建武3)の兵火に焼け,1465年(寛正6)比叡衆徒の破却に遭った。1603年(慶長8)知恩院拡張のため現在地に移った。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大谷本廟」の意味・わかりやすい解説

大谷本廟(西本願寺)
おおたにほんびょう

京都市東山区五条橋東にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の祖廟。宗祖親鸞(しんらん)の遺骨を祀(まつ)る。龍谷山(りゅうこくざん)と称し、俗に西大谷とよばれる。もともと鳥辺野(とりべの)の北、大谷の地にあった親鸞の墓所に建てられた廟所が本願寺で、1478年(文明10)本願寺が蓮如(れんにょ)によって山科(やましな)に再興されるまでは、寺は長い間さびれてはいたけれども、いわば浄土真宗の本山であった。その故地は現在の知恩院(ちおんいん)の境内である。現在地には1603年(慶長8)に移し変えられ、旧名を継いで大谷の名を用いた。仏殿その他の建造物は1867年(慶応3)に火災によって焼失したので、1870年(明治3)以降に再建されたものである。現在、門信徒のための近代的な納骨堂(無量寿(むりょうじゅ)堂)その他も建立されている。

[森 章司]



大谷本廟(東本願寺)
おおたにほんびょう

京都市東山区円山(まるやま)町にある真宗大谷派(東本願寺)の祖廟。宗祖親鸞(しんらん)および歴代の法主(ほっしゅ)の遺骨などを祀(まつ)る。大谷別院とも称し、俗に東大谷とよばれている。1602年(慶長7)に大谷派第12世教如(きょうにょ)によって京都市下京(しもぎょう)区烏丸(からすま)通りに東本願寺が創建されたときには、その境内に造営されていたが、1653年(承応2)同派第14世琢如(たくにょ)のとき、将軍徳川家綱より土地の寄進を受けて現在地に移された。仏堂は1703年(元禄16)の建造で、祖廟は境内東方の山腹にあり、石墳の上には親鸞遺愛のものと伝えられる虎石(とらいし)が置かれている。またここには、武家墓といわれる諸侯の墓や門信徒のための納骨所がある。

[森 章司]

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