改訂新版 世界大百科事典 「人体実験」の意味・わかりやすい解説
人体実験 (じんたいじっけん)
広義には生きている人間に対する実験を人体実験という。人体実験は,被験者の生命,身体,精神,人権に対する重大な損傷,侵害をもたらす危険があるので,その実施にあたっては厳重な注意と慎重な計画が不可欠である。そこで,ニュルンベルク裁判において人体実験を行った医師ら関係者を裁くため,1947年人体実験において守られるべき基本的原則が〈ニュルンベルク綱領〉として定められている。綱領では,実験担当者の資格や緊急の場合に対する準備など遵守事項を定めているが,最も本質的な原則は,被験者の自発的同意とそのための十分なる情報提供である。すなわち,実験の目的,性格,方法,手段,予期される危険などについて十分に知らされたうえでの自発的同意が,人体実験を行うための絶対的前提である。
狭義の人体実験は,前述の原則が守られず,非合法になされるものを意味する。被験者に対して実験に関する十分な知識を与えず,強制的になされ,重大な人権侵害と被験者の身体,精神に損傷をもたらす。この種のものとしては,第2次大戦中にナチスが強制収容所で行った一連の人体実験が国際的に有名である。たとえば,ダハウ収容所においてドイツ空軍省航空医学研究所のスタッフが行った高圧,低温が人体にもたらす影響についての実験がある。この実験の責任者シュトルークホルトHubertus Strugholdは,のちにアメリカに渡り,アメリカ空軍の各種宇宙医学研究プロジェクトに参加した。日本では関東軍防疫給水部本部(のちの731部隊。責任者石井四郎の名から通称石井部隊)が行った細菌戦のための人体実験が有名である。近年,その全容が明らかにされつつあるが,3000人以上の人間が殺された大規模な人体実験であった。実験データは,ナチスの航空医学研究所の人体実験と同様,戦後アメリカ軍が秘匿して持ち帰った。医学部で行われた人体実験としては,アメリカ人捕虜を生きたまま解剖した九州大学生体解剖事件がよく知られている。
以上の例はすべて戦争中に行われた人体実験であるが,戦後もニュルンベルク綱領に反する実験は数多くなされてきた。戦後のケースは,医薬品開発に関係したものが多い。医薬品開発における臨床試験の段階で,薬品会社の社員や精神病院入院患者などを対象に人体実験が行われた。条件が確定していない臨床試験には,つねに人体実験的な要素がつきまとうので,医学や薬学関連領域での臨床研究についても,世界医師会が1964年にヘルシンキ宣言(世界医師会倫理綱領)を作成している。これでも,ニュルンベルク綱領と同様に〈被験者に対する完全な説明と,そののちの自由意志による同意〉が基本原則になっている。
執筆者:日野 秀逸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報