改訂新版 世界大百科事典 「仁斎学」の意味・わかりやすい解説
仁斎学 (じんさいがく)
江戸前期の儒学者伊藤仁斎(1627-1705)が築いた思想体系。思想的目標からみて古義学,成立場所からみて堀川学ともいう。仁斎個人の思想をさす場合と,学派としての思想をさす場合とがある。長らくこの両者は一致しているものと考えられてきた。しかし,仁斎の書き残した著書の稿本と,子息の伊藤東涯ら門人たちがそれに手を加えて出版した刊本とを比較する研究が進むにつれて,両者の相違が明らかになった。ここでは仁斎個人の思想として述べる。
総体的にいえば,仁斎学は朱子学の克服を目ざして形成された。まず朱子をはじめとする先行の注解を排除して直接《論語》《孟子》を熟読することが求められる。こうして聖人の意思(思考様式)語脈(文脈)を知り,それを通じて儒教の意味(経書各部分の個別的な趣旨)血脈(正統思想)を理解せよと主張する。この方法論を意味血脈論という。具体的には,《論語》《孟子》を構成上の特徴や形態上の相違によってそれぞれ上下に分類し,《中庸》を聖人の教えに一致する部分と他の書物が誤って入りこんでいる部分とに区別し,《大学》を儒教の正統思想にそむく書と断定する。経書観としていえば,朱子学の四書(《大学》《論語》《孟子》《中庸》)から《大学》を除いて三書が設定され,また五経(《易経》《書経》《詩経》《礼記》《春秋》)から《礼記》を除いて四経が設定された。朱子学の理気二元論を否定して,理は実体でなく法則にすぎないとし,天地の間を満たしているものは一元の気であり,その運動によって万物が生成されるとした。この原理論を気一元論という。天道(自然界)と天(世界の支配的存在)と人道(人間社会)を区分して,天道の展開は気の運動法則を通じて認識可能,天の意思は不可知でひたすら受容すべきもの,人道の法則は自然的な気の運動傾向によって説明すべきでなく,人間固有の仁義(道徳)としてとらえよと主張する。仁義は,人がもっている自然の本性を拡充して社会の習慣や人情と合一させることによって達成されるが,その際,個人的な生活条件を尊重することが必要で,至公(一律の普遍性)を強調するだけでは弊害があるという。この道徳論を人情説と呼ぶ。仏教思想を虚妄として儒教的排仏論の枠組みを守るが,仏教が日常生活のなかで定着して社会的秩序を作りあげている現実を重視し,社会的な仏教否定は行わない。京都の町の慣行と江戸幕府の触書および朝廷・公家の伝統が,日常生活を規制する具体的な規範である。現実の天地と人情は古今を通じて変わることなく,道徳もまた一貫して不変であるとする。
仁斎学は,東涯,梅宇,蘭嵎(らんぐう)などの子どもたちや孫の東所らによって変化させられながらも,伊藤家の家学として継承され,京都を中心として町人・農民階級のなかに普及していった。数多くの藩が仁斎学派の儒者を召し抱えたが,寛政改革以降,急速に減少した。
執筆者:三宅 正彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報