生没年未詳。中国、戦国時代の儒者である孟軻(もうか)。あるいは彼の思想を伝える書物の名。孟軻の軻は名。字(あざな)は子輿(しよ)または子車といわれるが、根拠は薄い。孔子(こうし)没後100年ほどたった紀元前4世紀前半ごろに生まれる。幼時の話に孟母三遷(もうぼさんせん)や断機(だんき)の教えがあるが、史実かどうか疑わしい。生地は鄒(すう)の国で、現在の山東省に属する。若いころに孔子の生国である魯(ろ)に遊学し、そこで孔子の孫の子思(しし)(孔伋(こうきゅう))の門人に学んだ。のち、弟子たちを引き連れ、「後車数十乗(台)、従者数百人」という大部隊で、梁(りょう)(魏(ぎ))の恵(けい)王(在位前369〜前319)、斉(せい)の宣(せん)王(在位前319〜前301)、鄒の穆(ぼく)公(在位前382〜前330)、滕(とう)の文(ぶん)公(在位前326〜?)などに遊説(ゆうぜい)して回ったが、いずれも不首尾で、晩年は郷里で後進の指導にあたった。
[土田健次郎 2015年12月14日]
孟子の生きた戦国時代、有力諸侯は自ら王と称し、武力によって他国を帰属させ、天下に覇(は)を唱えようとしていた。彼らの目標は、春秋時代の斉(せい)の桓(かん)公や晋(しん)の文公のような覇者であった。このようななかで孟子は、その理想主義的な思想を諸侯に説いて回った。まず彼は、諸侯たちの野心が覇者たるにあることを指摘し、そのうえで覇道を否定し、王道を唱えた。力により富国強兵を図る覇道では人心を掌握できない、仁愛による王道によってこそ民心を獲得し、天下を統治できるとしたのである。軍隊や領土の大小ではなく、人心の掌握こそ統治の要諦(ようてい)である、というのが孟子の主張であった。この王道論は諸侯の欲望を踏まえつつ、仁による儒家としての統治法をいうものであったが、結局は、そのあまりの理想主義的傾向のゆえに用いられなかった。
孟子の民心把握の重視はまた、易姓(えきせい)革命の肯定という過激な形でも現れた。民の信頼を失った天子は武力によって討伐されても当然というこの考えは、当時のみならず後世ながく危険思想とみなされた。『孟子』を積んで日本に渡る船はかならず沈没するという話すらあったほどである。なお王道政治の一環として彼が説いた井田(せいでん)法も有名である。井田法とは、田地を井字型に九分し、中央を租税用の公田(こうでん)としてその周囲を均等に配分するというもので、土地制度の理念として長く生き続けた。
彼の思想は、人間に対する楽観的ともいえる信頼に基づいている。人間は、生まれながらにして仁(じん)、義(ぎ)、礼(れい)、智(ち)の四徳(しとく)の可能性を内包している。そしてそれは四端(したん)の情(惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ))として心に兆す。人はこの四端を拡大し、心の善性を発揮せねばならない。これが有名な性善説である。彼のこの主張は、約50年後輩の荀子(じゅんし)の性悪説とともに長く人性説の二典型とされた。
孟子の時代は、遊説家の活躍した時代であった。とくに斉の都の臨淄(りんし)には遊説家が多く集まり、その活況は「稷下(しょくか)の学」といわれる。孟子もこの稷下で論陣を張ったことがあるが、他の地方でも盛んに論争を行った。孟子の一連の論争のなかでもっとも有名なのは、性に善悪はいえぬとする告子(こくし)との応酬である。また墨翟(ぼくてき)(墨子)の兼愛説(無差別愛の主張)と楊朱(ようしゅ)の為我(いが)説(徹底した利己主義)をそれぞれ極論として退け、家族倫理を柱に漸次(ぜんじ)他者へと及ぼす仁義(じんぎ)の主張を行った。彼の言説の論争的性格は、孔子にはなかった論理性と体系性を儒家の学にもたらすものであった。そして『孟子』は、儒家の教理を説いた理論書として、後世とくに宋(そう)以降に重んぜられることになった。
[土田健次郎 2015年12月14日]
『孟子』は、諸国を遊説した孟子が諸侯や知識人、門弟などと問答したことばを集めた思想書である。「梁恵王(りょうのけいおう)」上下、「公孫丑(こうそんちゅう)」上下、「滕文公(とうのぶんこう)」上下、「離婁(りろう)」上下、「万章(ばんしょう)」上下、「告子(こくし)」上下、「尽心(じんしん)」上下の七篇(へん)からなり、門弟の編集をもとにしていると推測されている。『孟子』は長く経書(けいしょ)(儒教のもっとも基本的な古典)としての扱いを受けていなかった。しかし唐(とう)になり韓愈(かんゆ)がこの書を顕彰し、それが北宋に受け継がれ、しだいに重視されるようになった。そして南宋の朱熹(しゅき)(朱子)が四書(『論語』『大学』『中庸(ちゅうよう)』『孟子』)の一つに数えてから、朱子学の権威の増大とともに、この書も経書として揺るぎない地位をもつに至った。しかし一方では、北宋の司馬光(しばこう)、李覯(りこう)(1009―1059)をはじめとする一連の孟子批判も存在し、そのことはまた、この書のもつ理想主義的内容が、ときに危険思想ともみられたことを物語ってもいる。
[土田健次郎 2015年12月14日]
『金谷治訳注『中国古典選5 孟子』(1966・朝日新聞社)』▽『宇野精一訳注『全釈漢文大系2 孟子』(1973・集英社)』▽『小林勝人訳注『孟子』上下(岩波文庫)』▽『金谷治著『孟子』(岩波新書)』
中国,戦国時代の思想家。姓は孟,名は軻(か)。字は子輿(しよ),子車。孔子の生地に近い鄒(すう)(山東省)の人。幼少のころ,母親が教育環境を配慮して三たび転居したこと,いわゆる〈孟母三遷〉,遠く遊学した孟軻が帰省するや母親が機(はた)を断ち切って学業を中断すべからざるを説いたこと,いわゆる〈孟母断機〉は,広く知られた伝説である。孔子の孫の子思の門人に学び,儒学に通じてのち,斉の宣王に仕え,王道の理想を説いた。宣王は孟子の学説に傾聴し,孟子もその実現に期待したが,結局失敗に終わった。それで魏国に行き恵王に説いた。有名な五十歩百歩の議論はこのときに開陳されたものである。共鳴はされたものの用いられなかった。富国強兵の戦国時代には,迂遠な理論と思われたのであろう。また宋,滕(とう),薛(せつ)にも遊説したが受け入れられず,ついに実際政治への参与を断念して,門人の万章(ばんしよう),公孫丑(こうそんちゆう)らと《詩経》や《書経》の孔子の精神を祖述して,《孟子》7編を著した。諸子の一人にすぎなかった《孟子》を経書にまで昇格させたのは宋儒である。宋の朱子が《孟子》を《論語》と並べ,《大学》《中庸》の2編と合わせて〈四書〉と称して,尊重したことによる。
孟子の仁や孝弟を重んずる道徳思想は,基本的には,孔子と立場を同じくする。しかし肉親への愛情と,その展開である人間愛を,孔子はなんら論証を要しない絶対的なものと考えたけれども,孟子は違う。道徳を人間の内在的規範として成立させようとした。有名な四端説がある。政治的には,仁と義の徳によって戦国の乱世をしずめ,社会に秩序を,民衆に安定をもたらそうとした。王道主義と呼ばれる。その特色は,道徳政治の前提としての経済的条件を確認したこと,経済的条件の限界と,その実現のための具体的方法(井田法)を提示したことにある。また民意を天意と称して,武力による革命を是認した。
→易姓革命
執筆者:日原 利国
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前372頃~前289頃
戦国時代の儒家。名は軻(か)。山東鄒(すう)県の人。子思(しし)の門人に学び,梁(りょう),斉,宋,薛(せつ),滕(とう)の諸国を遊説した。孔子を顕彰し,当時の異端諸説を攻撃し,性善説を唱えて王道政治を説いたが,時勢に適切でないとして退けられた。晩年隠退し,弟子の万章(ばんしょう)らと政治や人間について討論した。その言行は『孟子』7編に記録されている。
四書の一つ。7編。孟子と為政者や弟子との問答形式をとる。孔子の仁の思想を仁と義の2字によって祖述し,それが人間の本性に根ざすものであることを強調した(性善説)。さらにその具体的実現として王道政治を主張し,また学徳の有無による階級的差別にも及んだ。儒家思想は孟子をへて,支配階級に即した道徳学と政治学の内容を整えた。『孟子』の文章は談論饒舌で,弁論家孟子の一端をよく表している。
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…中国の《論語》《孟子》《大学》《中庸》の総称。〈学庸論孟〉ともいい,儒教思想の真髄を得たものとして宋の朱子学以来尊重されてきた。…
…戦国の政論家〈説客(ぜいかく)〉の雄弁術のめざましい発達は,対句(ついく)の技巧の成長を促し,散文は急速に進歩した。〈諸子〉の著作の中で,儒家の《孟子》と道家の《荘子(そうじ)》とが文学的にはすぐれていた。比喩の巧みさと話題のゆたかなことは共通するが,《孟子》は説得力に富み,《荘子》は逆説にみちつつ壮大な想像の世界を描く。…
…孔子の孫の子思の門人に学び,儒学に通じてのち,斉の宣王に仕え,王道の理想を説いた。宣王は孟子の学説に傾聴し,孟子もその実現に期待したが,結局失敗に終わった。それで魏国に行き恵王に説いた。…
… これに対して東洋の人間観では,善と悪を神に結びつけず,人間性に内在する二つの心理的傾向とみる。孟子は性善説を唱え,荀子は性悪説を唱えたが,この二つの説は理論的には矛盾しない。孟子の考えるところでは,人間の本性には良心と放心という二つの傾向がある。…
…すなわち有徳者が天命を受けて天下を統治すべきであり,もし徳が衰え民心が離反するようになれば,天命はその者を去って別の有徳者にくだり,ここに易姓革命が起こることとなる。革命説は《易経》の革卦にもとづくが,武力革命を肯定した民本主義者の孟子によって理論化され,さらに《春秋公羊伝(くようでん)》によって補強され,漢代の董仲舒(とうちゆうじよ)の《春秋繁露》に至って,より完成の域に達した。【日原 利国】。…
…儒家は天下の人民が帰服するような有徳の王者を遠い古代に想定し,それを先王といい,その政道を王道と称した。徳を政治の原理とする思想は《書経》や《論語》などに見られるが,王道を覇道と対比させて明確にしたのは孟子で,〈徳を以て仁を行う者は王たらん〉すなわち仁義の徳が善政となって流露するのが王道であると説く。王道政治の前提として経済を重んじ,生活が安定した後に教化が可能であるとする点,注目される。…
…生没年不詳。孟子の論敵で,性について孟子としばしば論争し,〈性には善なく不善なし〉と主張したことで知られる。告子の性とは生まれつきの本能をいい,食欲や性欲を主要素と考えているが,〈性は渦を巻いて流れる水のようなもので,東の方へ堤を切り開くと水は東へ流れ,西の方へ切り開くと西へ流れる。…
…孔子の死後,儒家は,個人的な修養を第一とする曾子,子思の派と,仁を実現するために社会的規範である礼を重視する卜子夏の派に分かれた。前者から孟子があらわれた。孟子は,人間の本性は善であり,その本性を開発して徳を完成させるための修養を重視し,すぐれた君主の徳によって世界を安定させる必要を説いた。…
… また孔子は人間が社会的存在であるとの認識と相まって,〈克己復礼〉すなわち己のわがままにうちかって,社会的規範たる礼に従うことが仁だとも説く。性善説を唱える孟子は墨子の兼愛を自己の親と他人の親とを区別しない〈禽獣の愛〉と攻撃しつつ,孔子の仁説を発展させる。仁の根拠を人の心すなわち人の不幸を黙視しえぬとする〈人に忍びざるの心〉に求めた。…
…中国,孟子の道徳説の根本問題。孟子によると,すべての人は惻隠(そくいん)(あわれみいたましく思う),羞悪(しゆうお)(不善をはじにくむ),辞譲(じじよう)(目上にへりくだり譲る),是非(正邪を判断する)という四つの感情をそなえている。…
…この名と実の正しい一致の主張には,孔子の当時の〈礼楽〉的貴族領主制の,君臣・父子の身分秩序を乱さず,孝悌道徳の壊敗を許しえぬ立場,敵対する鄧析(とうせき)(前545‐前501)らの法的平等思想を忌避する態度が表明されている。孟子は,新しく編成された《春秋》を孔子の正名(名分)の具現とみて,そこから〈名を正して分を定め,情を求めて実を責める〉(欧陽修)君父制を重視する尊王思想を学びとろうとした。以後,人倫道徳と政治上の視野から〈《春秋》は〈名分〉を道(い)う〉(《荘子》天下篇)と評定された。…
…すでに戦国時代の初期において,世碩(せいせき)なるものにより人の本性は善悪の両面への可能性をもつとする説が出されたという(《論衡》本性篇)。人の本性をめぐる孟子と告子の論争はあまりにも名高い。告子が人間の生への本能的な意欲を性としたのに対し,孟子は性善説をもって応酬し,儒教の性論の基礎を築いた。…
…日本人は中国へ観光客としてよりも巡礼として行く〉(エドガー・スノー)。ある程度の教育をうけた日本人で孔子や孟子の金言のいくつか,李白や杜甫の詩の一句や二句を記憶にとどめていないものは少ないであろう。われわれは単なる風景,習俗,物産の珍しさを喜ぶよりも,孔孟,諸葛孔明,李杜韓白(李白・杜甫・韓愈・白居易)の国であることに感動する面が,たしかにある。…
…このうち墨子は,孔子の仁愛が家族を中心とする閉じられた生活共同体への愛であることに反対し,天の神の意志である人類愛,すなわち兼愛を主張した。そのあとに出た儒家の孟子は,墨子の兼愛説を無君無父(君を無(な)みし父を無みす)の思想として激しく攻撃するとともに,他方では人間の自然の性のうちに善が内在するという性善説を唱え,これが永く儒家の正統思想となった。これに対して道家の老子は,儒家の道徳を不自然な人為の産物として否定し,無為自然こそ天の道であることを強調した。…
…春秋戦国時代の覇者の行った統治方式で,斉の桓公,晋の文公は覇道の代表的な実行者とされる。覇道を王道と対比させて明確に説いたのは孟子で,〈力を以て仁を仮(か)る者は覇,徳を以て仁を行う者は王〉という。仁政を装って権力政治を行うのが覇者である。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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