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福井県敦賀市の北東に位置し,天筒山の北西端の海に突出した岬の山上にある要塞堅固な中世の城。1337年(延元2・建武4)ここに拠る南朝方の新田義貞らと,攻囲する北朝方の斯波高経らとの攻防は《太平記》に記されてあまねく知られている。その後51年(正平6・観応2)には足利尊氏に背いた足利直義がここに拠り,さらに1459年(長禄3)には斯波氏の家督をめぐり,越前守護斯波義敏と守護代甲斐常治がこの城で争った。戦国時代,朝倉氏は代々ここに一族の敦賀郡司を置いて越前支配を達成。戦国末期の1570年(元亀1)北陸支配をもくろむ織田信長は急きょ3万の大軍を率いて越前に侵入,朝倉景恒の守る金崎城を落とすが,浅井長政の離反にあい,総退却した話は有名。73年(天正1)朝倉氏の滅亡後,織田信長配下の武藤舜秀が入るが,豊臣秀吉の麾下蜂屋頼隆が新たに敦賀城を築き,廃城となる。
執筆者:水藤 真
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…足利尊氏の離反によって新政が破れると,越前は南北両朝軍の戦場となった。敦賀の金崎(かねがさき)城に立てこもった新田義貞らを高経以下の北朝軍が攻撃し,翌年3月これを落とした。このとき城を脱した義貞は府中(現,武生市)で態勢をたて直し,38年(延元3∥暦応1)2月義貞を追って府中に進駐した高経軍を撃破し,勢いに乗じてさらに兵を北に進めて高経軍の拠点,足羽七城を包囲した。…
…35年(建武2)11月には鎌倉に反した足利尊氏討伐の軍を進めた。36年(延元1∥建武3)10月新田義貞らとともに越前に赴き金崎城に拠って北陸経営に尽力したが,翌年3月落城の際自害。【森 茂暁】。…
…尊氏が8月持明院統の光明天皇を擁立したため南北朝が並立した。義貞は北国に南軍の拠点を築くべく恒良・尊良両親王を奉じて越前に下り,金崎(かねがさき)城,杣山(そまやま)城を根城に力戦を重ねたが,38年藤島の戦で戦死した。【森 茂暁】。…
※「金崎城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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