1941年企画院の調査官,職員17名が治安維持法違反容疑で検挙された事件。1940年11月,企画院はより強力な戦時統制経済の確立を目ざして〈経済新体制確立要綱〉を発表したが,これは〈高度国防国家建設〉〈公益優先〉を大義名分として,資本と経営の分離,利潤配当制限,統制団体役員の政府による任命制など私企業への官僚統制の強化を意図していた。これに対し自主統制を強調する財界は,この案を〈赤化〉思想の産物として攻撃し,第2次近衛文麿内閣の小林一三商相も閣内で強く企画院原案に反対した。このため近衛内閣は企画院原案から資本と経営の分離を削除し,財界案に妥協した要綱を同年12月,閣議決定した。〈赤〉攻撃は12月に内相に就任した平沼騏一郎(きいちろう)によっても強まり,41年1~4月に企画院原案作成に関与した和田博雄,正木千冬,勝間田清一,佐多忠隆,稲葉修三ら17名が治安維持法違反容疑で検挙,数名が起訴された。治安当局は被疑者に自白を強要し,和田らを〈コミンテルンと日本共産党の方針を支持した〉共産主義者だとして事件を捏造(ねつぞう)した。事件は治安維持法の適用の恣意的拡大を示すものであるとともに,戦時経済統制における財界の発言権強化を示すものであった。事件の第一審判決は敗戦後の45年9月に出され,和田,正木,勝間田,稲葉は無罪,佐多は懲役1年5ヵ月(執行猶予2年)となった。
執筆者:粟屋 憲太郎
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1941年(昭和16)1月に、企画院調査官正木千冬(まさきちふゆ)、佐多忠隆(さたただたか)、稲葉秀三(いなばひでぞう)、4月に元調査官和田博雄(ひろお)、勝間田清一(かつまたせいいち)らが治安維持法違反で次々に検挙、起訴された事件。この事件の背後には、前年の経済新体制をめぐる企画院と財界などの激しい抗争があった。
1940年(昭和15)12月内相に就任した平沼騏一郎(きいちろう)は、企画院の「経済新体制確立要綱」がマルクス主義の社会観によるものであるとして、調査局、企画庁時代からの和田、勝間田を中心とする交友グループ17名を検挙した。そのなかには、経済新体制立案の中心グループであるいわゆる革新官僚は含まれておらず、企画院内の「左派」グループを一網打尽にしたものである。45年(昭和20)9月の第一審判決で、全員無罪(うち1人は別件で有罪)となった。
[芳井研一]
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