人類が社会生活を営むにあたって必要な相互統制機能を永久不可欠のものとみなし,統制機関としての高度な段階のものを国家,さらにその最高段階を資本主義国家とし,その弊害を克服して社会主義社会を実現する,と考える思想。マルクス=レーニン主義が国家を階級支配の道具とみなし,無階級共産主義社会の実現は同時に国家の死滅であるとしたのに対し,国家社会主義は,国家を階級支配の道具とされている状態から解放し,本来の統制機関として円満な社会を運営する主体とならしめることを目的とし,かつこの国家の統制機能は人類が社会生活を続ける限り永遠のものと説く。
国家社会主義思想は19世紀のドイツでとくに唱えられた。フィヒテらのドイツ古典哲学と,その経済学的根拠を与えたJ.K.ロートベルトゥス,A.H.G.ワーグナー,F.ラサールらの国民経済学派と,これらを継承したC.ブレンターノらの講壇社会主義者と呼ばれた一群がそのおもな唱道者であった。後進資本主義国であったドイツ連邦がプロイセンによる統一とその資本主義国としての成長をするために,ユンカー,新興ブルジョアジー,プロレタリアートを結びつける必要があった。社会政策,保護主義,専売や国有化を重視する国家社会主義はドイツの歴史的条件のなかから形成された。
日本において国家社会主義を唱えた代表的思想家としては山路愛山,高畠素之,北一輝がいる。共通する特色として,(1)国体の尊重,(2)国家=搾取機関説を廃した国家=統制機関説,(3)階級闘争と民族闘争の結合,(4)反議会主義があげられよう(ただし愛山には(4)の主張は稀薄である)。山路愛山は皇室を中心とする日本の国民的一体性の伝統に,国家社会主義の根拠を求め,皇室と国家が資本家階級の搾取と抑圧に利用されている現状を変革し,人民が国家と皇室のもとに団結し,その保護をうける有機的統一体となることが,国家社会主義の実現であると説いた。
これに対し高畠素之はマルクス学説の必然的帰結としての国家社会主義という主張を行った。マルクスの《資本論》の体系は,資本主義的生産の大規模な集約的実現のなかで国家独占資本主義にいたる資本主義経済の国家利用関係の進展と社会主義の物質的準備を説いたものとされた。また現実に出現したソビエト連邦の国家権力としての強大化は,資本主義が打倒され,したがって資本主義の搾取・抑圧機関としての国家利用関係が否定されても,国家の統制機能は永遠であることの実証としてとらえた。
日本の国体,つまり皇室と人民との融合関係の強さとされている伝統を,高畠は国家がその統制機能を果たすうえで有利な条件ととらえたにすぎない。しかし1928年の高畠の死後に彼の影響下に登場した国家社会主義団体(1932年結成の赤松克麿らの日本国家社会党や下中弥三郎らの新日本国民同盟)は,特殊日本的,絶対的なものとして皇室と国体をとらえていった。この流れの多くはやがて国家社会主義から〈社会主義〉をぬき去った日本主義,国家主義を唱えて,戦争政策の推進と社会民主主義や共産主義勢力の批判者となっていった。
執筆者:田中 真人
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国家の手によって社会主義(厳密には社会政策)の実現を図ろうとする思想ならびに運動を意味する。社会主義的色彩の濃い国家主義statismの一種。固有の意味での国家社会主義は、19世紀後半、ドイツのF・ラッサールやJ・K・ロードベルトゥスらによって唱導された。それは、資本主義の発展に伴って発生する労働者の貧困の救済や労働条件の改善を資本主義体制の枠内で達成しようとする考え方で、社会主義体制の実現を目ざすものではない。具体的な提言は、銀行、保険、鉄道、ガス、電気など重要産業の国営化、国家の援助を受ける労働者生産組合の組織化、普通選挙法の実施などがあげられる。政治的実践の実例としては、たとえばビスマルクが社会主義勢力に対抗する必要上、A・H・G・ワーグナーやG・S・シュモラーら講壇社会主義者の見解を取り入れて、傷病、養老保険などの社会政策の実施を図ったり、第一次世界大戦後の資本主義の危機に直面して、ナチズムやムッソリーニのファシズムが国家社会主義的な考えを標榜(ひょうぼう)したことがある。ただファシズムの場合、古典的な西欧の市民的自由や議会主義の政治原理に対する徹底した否定の姿勢があり、その点19世紀の国家社会主義との明確な違いがある。
日本では国家社会主義の鼻祖として、大正・昭和初期に活躍した高畠素之(たかばたけもとゆき)の名がよくあげられるが、国家社会主義思想の紹介としては、すでに早く明治30年代前半に行われている。1898年(明治31)、民友社系の思想家竹越三叉(さんさ)が主宰する雑誌『世界之日本』に「国家社会主義」なる一文があり、「生活の自由を要す」る「第三級の人民」(「下等の人民」)の登場に注目しつつ、国家社会主義とは「国家の権力によりて社会主義を実行する者」と定義して、「大資本家と小資本家間の競争、資本家と職工の衝突、地主と小作人との抗争を政府の権力によりて調停し、社会の圧力が弱者を圧殺するを救はんとするもの也(なり)」と述べている。そして政治的改革を中心課題とする平民主義の勢力によっては解決しえない大資本の圧力、「金権政治、富豪政治」の弊害の除去を国家社会主義に期待している。また同じ民友社の歴史家山路愛山(やまじあいざん)らの国家社会党の結成(1905)にもその先駆をみることができる。
しかし、国家社会主義が一つの流行現象を形づくったのは昭和初期のことである。当時、社会主義から国家主義への転向現象が多く発生したことも手伝って、社会民衆党の赤松克麿(かつまろ)や全国労農大衆党の松谷(まつたに)与二郎らがそれぞれ脱党して、日本国家社会党を結成(1932)し国家社会主義を主張した。なお、国家社会主義の立場に共鳴する人々にはほかに、石川準十郎、近藤栄蔵、林癸未夫(きみお)らがある。そして高畠から北一輝(きたいっき)の『日本改造法案大綱』に至る国家社会主義理論は、純正日本主義(皇道主義)と並んで戦前の日本ファシズム運動の理論的基礎として機能したのである。このように、昭和初期のわが国において社会主義陣営からの転向組が中心になって国家社会主義が唱えられたのであるが、政治課題の実現に向けて、大規模に民衆を組織し動員する勢力にはならなかった。
[西田 毅]
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国家の手によって社会体制を改変し,あるいは社会問題を解決しようとする思想と運動。主として19世紀ドイツで展開された。ロートベルトゥスやラサール,講壇社会主義者の見解,ビスマルクの社会政策的傾向,またキリスト教社会党やナウマンの政策も国家社会主義とみなされる。ナチズムをさして使われることもある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
大正中期以降におこり,日本の国家と社会とを改造して全体主義的に平等な国民生活の実現を意図したもので,国際的勢力拡充を前提としていた。1919年(大正8)大川周明・満川亀太郎らの設立した猶存(ゆうぞん)社を源流的なものとして革新右翼とよばれ,満州事変の勃発後に活発になり,内田良平の大日本生産党,大川周明会頭の神武(じんぶ)会などが有力であった。また無産政党の内部からもファシズム運動に影響されて国家社会主義が生じた。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
「ナチズム」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…だがすべての社会主義者がここに集まったわけではなく,石川三四郎のように批判的人物もいた。やがて売文社内で思想対立がおこり,高畠は国家社会主義の立場を鮮明にして離れ,19年3月売文社は解散した。高畠は《国家社会主義》を同年4月創刊し,売文社を再興したが,同年8月号で廃刊された。…
…明治以来の日本の国家主義は,当初の独立型から徐々に侵略的・攻撃的性格を帯び,最後には極端な形態である超国家主義に陥ったといわれている。 第3に,国家主義とは国家社会主義を意味する。すなわち,社会主義でありながらも資本主義そのものを打倒するのでなく,国家が積極的に社会主義的諸政策(国有化や公平な分配など)を行うことを主張する立場である。…
…改革された在郷軍人会を実行主体とし,天皇大権を発動してクーデタを行うというこの〈改造法案〉は,西田税を媒介にして主として陸軍青年将校の支持を得て,二・二六事件を招来したことは有名である。しかし北一輝がここで描く国家社会主義構想は,万世一系の天皇を現人神として絶対視したいわゆる超国家主義とは,大きく相違するものであった。第1に,ここでの天皇は,明治維新によって〈現代民主国ノ総代表トシテ国家ヲ代表スル〉に至った天皇であった。…
※「国家社会主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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