司法官僚出身の政治家。津山藩士の子として岡山県に生まれる。1888年(明治21)帝国大学法科卒業後、判事となり、東京控訴院部長を経て検事に転じた。政党勢力に対して峻厳(しゅんげん)な方針をとり、1907年(明治40)の日糖疑獄では多数の政党政治家が起訴された。1911年西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の司法次官となり、検事総長、大審院長を歴任。1923年(大正12)第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の法相となるが、同年12月の虎の門事件(とらのもんじけん)に衝撃を受け、翌1924年5月、皇室中心主義の修養団体、国本社(こくほんしゃ)を結成する。国本社には陸海軍将官、高級司法官僚、枢密院、貴族院などの有力者が参集し、平沼は政界に隠然たる勢力を築いた。1925年枢密院副議長となり、金融恐慌問題、ロンドン軍縮条約問題では政府を攻撃し、政党内閣の基盤を掘り崩した。1931年(昭和6)の満州事変勃発(ぼっぱつ)後、右翼や軍部の間から平沼内閣を求める声が広まったが、元老西園寺はこれを忌避していた。1936年枢密院議長になると国本社を解散し、政権担当を目ざした。1939年1月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の後を受けて組閣、日独軍事同盟の成立に苦心したが、独ソ不可侵条約の締結によって「複雑怪奇」の声明を残して総辞職した。以後、第二次、第三次近衛内閣の国務相を務め、太平洋戦争期には重臣の一人として東条英機(とうじょうひでき)内閣の倒壊工作にも関与した。敗戦直前のポツダム宣言受諾をめぐる御前会議では、陸軍側の4条件案に反対し、和平条件を国体護持のみに絞ることを主張した。戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身禁錮を宣告され、昭和27年8月、服役中に病死。終生、独身であった。
[小田部雄次]
『平沼騏一郎回顧録編纂委員会編『平沼騏一郎回顧録』(1955・学陽書房)』▽『岩崎栄著『伝記叢書268 平沼騏一郎伝――伝記・平沼騏一郎』(1997・大空社)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書26 平沼騏一郎』(2007・ゆまに書房)』
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司法官,政治家。岡山に生まれる。1888年東京帝国大学法科を卒業し,判事となる。東京控訴院部長を経て検事に転じ,1911年司法次官,12年より21年まで検事総長,23年第2次山本権兵衛内閣の司法大臣を歴任。虎の門事件に衝撃をうけ,24年からは国家主義団体国本社を主宰(会長),同年には枢密顧問官に就任,翌年枢密院副議長となり,台湾銀行救済問題,ロンドン条約批准問題などで政府を苦しめた。満州事変後には首相候補者として右翼・軍部から期待されるようになったが,元老西園寺公望は彼の右翼色を忌避した。平沼も36年枢密院議長への昇任に際して国本社会長を辞し,ついで国本社をも解散。しだいに親英米派とも妥協的となり,39年1月第1次近衛文麿内閣のあとをうけて首相に推されたが,独ソ不可侵条約調印を機に8ヵ月で内閣を投げ出している。しかしその後も〈観念右翼〉の巨頭と目され,40年大政翼賛会の性格をめぐる論議が紛糾した際には,第2次近衛内閣の内務大臣に迎えられ,翼賛会を公事結社と規定してその政治性を弱める役割を果たした。45年4月ふたたび枢密院議長となったが,敗戦後の12月にA級戦犯容疑者として逮捕され,48年11月極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決をうけて服役,52年6月病気のため慶応病院に入院したが,そのまま死去した。
執筆者:古屋 哲夫
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明治〜昭和期の司法官,政治家 首相;枢密院議長;検事総長。
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(伊藤隆)
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1867.9.28~1952.8.22
明治~昭和前期の司法官僚。昭和戦前期の重臣。美作国生れ。東大卒。司法省に入り,東京地方裁判所,東京控訴院などの判事をへて,1905年(明治38)大審院検事。09年司法省民刑局長兼大審院検事のとき,日糖事件を直接指揮して捜査。10年同じ検事局の布陣で大逆事件を摘発。11年以降,司法次官・大審院長・司法大臣を歴任。26年(昭和元)枢密院副議長。国本社を組織するなどの右翼的傾向が元老西園寺公望(きんもち)に忌避された。36年3月枢密院議長。39年1月組閣。しかし日独伊三国防共協定の強化交渉をめぐって閣内対立が激化し,8月総辞職。第2次近衛内閣の内相・国務大臣。45年4月から12月まで枢密院議長。A級戦犯容疑で収監され,終身禁錮となる。
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…平沼騏一郎を中心に1924年5月発足した国家主義団体。前年の虎の門事件に衝撃をうけた平沼が,〈国体ノ精華ヲ顕要スル〉ことを目的として結成した,反政党政治・反国際協調の傾向を強くもつ団体である。…
… だが日中戦争が長期化して解決の見通しが立たず生活不安も深刻化すると,国民はこうした上からのお説教をうけつけなくなり,無関心と反発心が広がった。1938年後半には国民を主体的に結集しようとする国民再組織ないし新党運動がおこったが成功せず,近衛内閣に代わった平沼騏一郎内閣は39年2月に国民精神総動員運動を〈官民一体ノ挙国実践運動〉として強化する方針を打ち出した。精動委員長荒木貞夫文相のもとで9月から毎月1日を〈興亜奉公日〉とし,前線の労苦を想う耐乏生活をおしつけたが,翌年7・7奢侈品(しやしひん)製造販売禁止令が出ると,8月の興亜奉公日には〈ぜいたくは敵だ〉の立看板をかかげて街頭に進出した。…
…わが国は家族制度を基礎として一大家族を成し,皇室は我等の宗家である〉と忠孝一致の家族国家観を強調した。この家族国家観が淳風美俗の中核をなすものであるが,大正年代,平沼騏一郎(当時,検事総長)は臨時教育会議(1917‐19)において,国民の思想統一を意図した建議案の説明の中で,淳風美俗として,〈上下の秩序を保ち,忠孝を重んじ,貴賤貧富の関係は情と親しみを基本とし,一国は一家の如くすること〉と説いている。臨時教育会議は寺内正毅内閣が設置したもので,その議事録にはロシア革命の成功,日本国内の労働争議,小作争議の激増,米騒動等,激しい社会の動きに対する支配層の危機感がありありとみられる。…
…政党は翼賛会違憲の攻撃にのりだし,翌年初めの第76議会では政府からの補助金を大幅に削減した。そのため12月の内閣改造,41年4月の翼賛会改組で風見法相,有馬翼賛会事務総長らは退陣し,観念右翼の巨頭平沼騏一郎が内相となり,内務官僚や観念右翼が翼賛会の要職を占めた。翼賛会は政府の政策に協力するだけの公事結社であるとされ,行政補助機関に転落した。…
※「平沼騏一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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