伊作荘(読み)いさくのしょう

百科事典マイペディア 「伊作荘」の意味・わかりやすい解説

伊作荘【いさくのしょう】

薩摩国伊作郡の荘園。現鹿児島県日置市日吉町一帯。近衛家島津荘の一部をなす。1187年本領主の平重澄が,それまで島津荘の寄郡(よりごおり)であった当地を,島津荘一円荘として寄進しなおしたもの。下司職(げししき)は重澄に留保された。領家職(りょうけしき)は島津荘に同じ。1281年島津久長が伊作荘地頭職を分与されて入部してから,下司(本領主)・領家と地頭島津氏対立激化,1324年伊与倉川(現伊作川)を境に下地中分(したじちゅうぶん)が行われたが,1351年ころまでには領家方も併領した。伊作荘地頭島津氏は,伊作家島津氏または伊作氏といい,戦国時代を経て島津氏嫡流となる。

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改訂新版 世界大百科事典 「伊作荘」の意味・わかりやすい解説

伊作荘 (いさくのしょう)

薩摩国伊作郡(現,鹿児島県日置市など)にあった荘園で,薩摩・大隅・日向3国にまたがる島津荘の一部をなす。元来この土地は平姓伊作氏が領有していたが,平安時代末期に摂関家荘園島津荘に収納物の一部を納める寄郡(よせごおり)とされ,ついで1187年(文治3)本領主平重澄は下司職を持ったまま島津荘の一円不輸の荘園として寄進しなおし,さらに承久の乱の前後には本家近衛家から領家職が興福寺一乗院に寄進されたので,伊作荘は本領主・領家・本家によって重層的に領有される典型的な寄進型荘園となった。しかし他方では1186年以来,鎌倉幕府から島津荘惣地頭に任じられた島津忠久の下で地頭の支配が開始され,1270年代久長の時代には地頭の伊作荘への入部がはじまったから,本領主である下司伊作氏との間には激しい対立がつづき,1324年(正中1)には庄中の伊与倉川を境に下地中分が行われ,領家(下司)分と地頭分に二分された。南北朝時代以降は他の遠隔地荘園一般と同じく,荘園領主支配の没落の下で領家とそれに属する下司支配はゆきづまり,地頭島津氏の完全な所領となって近世に及んだ。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊作荘」の意味・わかりやすい解説

伊作荘
いざくのしょう

鹿児島県日置(ひおき)市吹上(ふきあげ)地区にあった鎌倉・南北朝時代の荘園。島津荘薩摩(さつま)方の一構成部分。律令(りつりょう)制下の薩摩国伊作郡の地で、平安末期に島津荘寄郡(よせごおり)(半不輸)となったが、当郡郡司で薩摩平氏一族の平重澄(しげずみ)が1187年(文治3)島津荘一円領(不輸不入)に寄進して成立。島津荘内の一円荘である伊作、の意味で伊作荘と呼称された。本所は近衛(このえ)家、領家(りょうけ)は一乗院(いちじょういん)、下司(げし)は重澄の子孫。1197年(建久8)「薩摩国図田帳(ずでんちょう)」で田地200町。地頭には守護島津氏が任命され、のち久長が伊作島津氏初代となる。鎌倉中期より領家(実際には下司)と地頭の相論が生じ、1324年(正中1)下地中分(したじちゅうぶん)をした。

 しかし1346年(正平1・貞和2)には伊作荘領家職が兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)として地頭伊作島津氏に預けられて同氏の私領となり、荘園制上は解体された。

三木 靖]

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