デジタル大辞泉
「伊藤若冲」の意味・読み・例文・類語
いとう‐じゃくちゅう【伊藤若冲】
[1716~1800]江戸中期の画家。京都の人。名は汝鈞、字は景和。若冲のほか、斗米庵の号がある。初め狩野派・光琳派および中国の名画に学び、写実的描写と特異な形態・色彩感覚による斬新な花鳥画を描いた。特に鶏の絵は有名。
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いとう‐じゃくちゅう【伊藤若冲】
- 江戸中期の画家。別号斗米庵。京都の人。狩野派、光琳派(こうりんは)や、元、明(みん)の画法を学び、写生的、装飾的な花鳥画を描く。特に鶏図にすぐれた。享保元~寛政一二年(一七一六‐一八〇〇)
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伊藤若冲 (いとうじゃくちゅう)
生没年:1716-1800(享保1-寛政12)
江戸中期京都画壇を代表する画家の一人。名は汝鈞(じよきん),字は景和。若冲のほか,斗米庵,米斗翁の号がある。京都錦小路の青物問屋の長男に生まれ,家業のかたわら,狩野派に学ぶが,その粉本主義に不満をもち,宋・元画に直接近づいた。40歳で家業を弟に譲り,生涯妻子を持たず絵画制作に専心,濃彩の花鳥画と水墨画に異色の画風を作りあげた。この時代には,本草学の流行にみられる実証主義的な風潮を背景に,円山応挙のような写生主義を唱える画家が生まれた。数十羽の鶏を飼って形状を写しとったという逸話が若冲にもあり,身のまわりの動・植物をモティーフにした作品が多い。しかし,写生を重視する平明な表現を標榜した応挙と比べると,同じく事物の具体性をよりどころとしながらも,若冲画の場合には対象の形態と緻密な細部描写とが想像力にみちた主観性の強い画面に再構成され,独自の空間表現と装飾効果が求められている。若冲の創作態度は,当時流行した設色稠密(ちゆうみつ)な沈南蘋(しんなんぴん)(沈銓)の花鳥画よりも,若冲が熱中したと伝えられる明代を中心にした中国絵画の模写に啓示を受けている。濃彩の花鳥画の代表作には若冲が京都相国寺に寄進した《動植綵絵(どうしよくさいえ)》(1757-66)と《仙人掌群鶏図襖(サボテンぐんけいずふすま)》(1790)がある。水墨画には軽妙でユーモラスな作品が多いが,画箋紙に墨がにじむ性質を巧みに利用しており,こうした高度な技法が生む表現効果には,濃彩の作品に通じるマチエールの画家としての側面がうかがえる。水墨画の代表作に《鹿苑寺大書院障壁画》(1759)がある。また,拓版画は日本版画史上に特異な位置を占める。天明の大火(1788)に遭って窮乏し,晩年は深草の石峯寺の傍らに隠棲した。同寺には若冲の意匠になると伝えられる石像群がある。
執筆者:鈴木 廣之
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伊藤若冲
いとうじゃくちゅう
(1716―1800)
江戸中・後期の画家。京都・高倉錦(にしき)小路の青物問屋「桝源(ますげん)」の長男として生まれる。本名源左衛門、名は汝鈞(じょきん)、字(あざな)は景和、若冲居士のほか、斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)と号した。幼少のころから絵を好み、初め狩野(かのう)派の画家(一説に大岡春卜(しゅんぼく)(1680―1763))に学び、春教と名のったと伝える。やがて中国宋(そう)・元(げん)・明(みん)の花鳥画を数多く模写してその写実力に感嘆、また日本の琳派(りんぱ)に装飾画の本質をうかがうなど、和漢の絵画伝統の研鑽(けんさん)を重ねた。その結果、即物写生の重要性を認識し、身近な動植物の写生に努めて、迫真的なあまりに一種幻想的ですらある独得の花鳥画の世界を創造してみせた。とくに鶏の絵を得意とし、米1斗の代でだれにも気軽に描き与えたという。代表作に『動植綵絵(どうしょくさいえ)』30幅(宮内庁、国宝)、『仙人掌群鶏図襖絵(さぼてんぐんけいずふすまえ)』(豊中(とよなか)市・西福寺)がある。
[小林 忠]
『辻惟雄著『若冲』(1974・美術出版社)』
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伊藤若冲
没年:寛政12.9.10(1800.10.27)
生年:享保1.2.8(1716.3.1)
江戸中期の画家。名は汝鈞。字は景和。斗米庵,米斗翁とも号す。京都錦小路の青物問屋の長男として生まれたが,絵画と禅に傾倒し,「若冲」の居士(在家の仏道修行者)号を得たのち,40歳で家業を弟に譲って画業に専念した。最初に学んだ狩野派の画法に飽き足りず,京都の古寺に伝わる宋,元,明の中国画を模写した果てに,実物写生を絶対視するに至ったらしい。その背景には,本草学の流行にみられるような時代の実証主義精神の高まりがあるが,実際の作品には,当時長崎経由で流行した沈南蘋の細密な花鳥画や黄檗宗関係の水墨画などの影響も大きく,むしろ既成の形態をデフォルメすることで幻想的,表現的な作品を生んだ点が高く評価される。40歳代の約10年を費やして完成し,「釈迦三尊像」3幅とともに相国寺に寄進した「動植綵絵」30幅(1889年に皇室に献納)がその特色をよく示す濃彩花鳥画の代表作であり,「仙人掌群鶏図襖」(1790,大阪西福寺蔵)も,金箔を貼りつめた画面に形態を誇張した鶏とサボテンを巧みに配置する傑作である。梅荘顕常と親交があったほか,売茶翁や黄檗僧たちとも交わり,信仰の念は生涯厚かった。独身を通し,晩年は深草の石峰寺に隠棲した。鹿苑寺(金閣寺)大書院の障壁画(1759)や「野菜涅槃図」(京都国立博物館蔵)などの水墨画,釈迦の一代記を表す石峰寺の石像群には,彼の信仰心と飄逸な造形感覚との絶妙な調和がみられる。拓本に似た特殊な木版画技法も黄檗宗を通じて習得,考案したものであろう。<参考文献>辻惟雄『若冲』
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伊藤若冲
いとうじゃくちゅう
[生]正徳6(1716).2.8. 京都
[没]寛政12(1800).9.10. 京都
江戸時代中期の画家。京都錦小路の青物問屋,桝屋源左衛門の長男。名は汝鈞,字は景和,号は斗米庵,米斗翁など。若冲は居士号で,彼が崇敬した相国寺の大典禅師が命名。生来俗事には関心を示さず,40歳のとき家業を次弟に譲り,生涯独身で画事に熱中。初め町狩野の大岡春卜につき春教と号していたが満足できず,のちに相国寺をはじめ京坂の名刹にある宋,元,明の名画を熱心に模写,また身近にある動植物を日々観察し写生に努めた。『動植綵絵』 30幅は,『釈迦三尊像』三大幅とともに相国寺に寄進されたもので,若冲の悲願のこもった生涯の傑作。濃艶な彩色と彼独自の形態感覚で大胆にデフォルメされた形がみごとに調和して,特異な超現実的ともいえる世界をつくりだしている。天明8 (1788) 年の大火で家を焼失,晩年は京都深草の石峰寺のかたわらに居を構え,水墨略画を同寺のために多く描いた。主要作品には『仙人掌群鶏図』 (90,西福寺) ,『野菜涅槃図』 (京都国立博物館) がある。
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伊藤若冲【いとうじゃくちゅう】
江戸中期の画家。名は汝鈞(じょきん),斗米庵(とべいあん)と号する。京都錦小路の青物問屋の生れ。狩野派,宋・元・明画を学び,さらに対象の実写に努め,光琳の装飾画風をもとり入れて独特の画風を完成。動植物を描き,特にニワトリを得意とした。30歳ころから約10年かかって完成した《動植綵絵(さいえ)》30幅,《群鶏図》(西福寺)が代表作。
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伊藤若冲 いとう-じゃくちゅう
1716-1800 江戸時代中期-後期の画家。
正徳(しょうとく)6年2月8日生まれ。はじめ狩野(かのう)派をまなぶ。宋(そう),元(げん),明(みん)の中国画や尾形光琳(こうりん)の画風を研究し,写実性を基調に装飾性をくわえた独自の境地をひらく。花鳥画,とくに鶏(にわとり)図を得意とした。寛政12年9月10日死去。85歳。京都出身。名は春教,汝鈞(じょきん)。字(あざな)は景和。別号に斗米庵。作品に「動植綵絵(さいえ)」「群鶏図」など。
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伊藤若冲
いとうじゃくちゅう
1716〜1800
江戸中期の画家
京都の人。家業の青物問屋を営むかたわら,狩野派を学び,元・明の画を研究し琳派の彩色法を折衷,動植物画に新機軸を開いた。特に鶏を好んで描いた。御物『花鳥魚貝図』は有名。
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伊藤若冲 (いとうじゃくちゅう)
生年月日:1716年2月8日
江戸時代中期;後期の画家
1800年没
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