沈銓(読み)しんせん(英語表記)Shěn Quán

改訂新版 世界大百科事典 「沈銓」の意味・わかりやすい解説

沈銓 (しんせん)
Shěn Quán
生没年:1682-?

中国,清代の画家。字は南蘋,あるいは衡之ともいう。衡斎と号したが,日本では沈南蘋しんなんぴん)/(ちんなんぴん)の名で広く親しまれている。浙江省の湖州の出身,あるいは徳清の人とも伝えられる。乾隆帝の側近として礼部侍郎に昇った沈徳潜の一族である。職業画工とみなされるが,経歴はわからない。1731年(清の雍正9・享保16)長崎に来朝したが,幕府招聘に応じたという説がある。伊孚九(いふきゆう)らと並ぶ来舶画人の一人として日本近世画壇に大きな影響をもたらした。33年に帰国した後も,日本側の注文に応じて作品を送り続けたといわれる。伝世品の年記は雍正初年から乾隆20年(1755)に至る30年間のもので,画題は鹿,猿,兎,鶴,鳳凰孔雀など花卉翎毛(かきれいもう)にほとんど限られている。濃墨のこまかな点苔を凸凹の激しい岩や土坡に施すのをその画の特徴とし,華麗な着色とどぎついほどの装飾性を強調した。中国での弟子に一族の沈楷,高釣,鄭培らがいる。80余歳で卒した。
執筆者: 沈銓は長崎滞在中に熊斐(ゆうひ)に画法を伝え,熊斐の門下から宋紫石鶴亭,熊斐文,真村芦江(まむらろこう),諸葛監(しよかつかん),森蘭斎,建部凌岱(たけべりようたい)などの画家が出たが,これらを総称して南蘋派という。彼の画風は鶴亭や宋紫石らにより近畿や関東に伝えられ,江戸後期にはほぼ全国に普及して,南蘋派以外でも円山四条派,南画,洋風画などの諸画派がその直接間接の影響を受けた。沈銓の画風が当時の画壇にひろく受容されたのは,その精緻な写実的表現が狩野派の粉本主義に不満を感じていた革新的な画人たちの眼にきわめて新鮮に映じたからであり,彼の来朝は江戸後期の画壇に写実主義が勃興する契機となった。当時からその作品は尊重されそのために偽作も多い。
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百科事典マイペディア 「沈銓」の意味・わかりやすい解説

沈銓【しんせん】

〈ちんせん〉とも。中国,清代中期の画家。生没年不詳。浙江省呉興の人。字を衡之,号を南蘋(なんぴん)といった。1731年長崎に来航して,熊代熊斐(くましろゆうひ),宋紫石をはじめとする多くの日本画家に花鳥画を教授し,江戸後期の花鳥画に大きな影響を与えたため,中国よりも日本で名高い。画風は明画花鳥図の系統の古風なもの。
→関連項目秋田派岸駒佐竹曙山円山派渡辺崋山

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「沈銓」の解説

沈銓 しん-せん

沈南蘋(しん-なんぴん)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の沈銓の言及

【長崎派】より

…(2)漢画派は,1644年(正保1)に来朝した黄檗僧逸然(1600か01‐68)を祖とし,河村若芝(1629か38‐1707),渡辺秀石(1639‐1707)らが謹厳な北宗画風の絵を描き,秀石は唐絵目利職につくなど,長崎派の主流となった。(3)南蘋(なんぴん)派は,1731年(享保16)に渡来した沈銓(しんせん)(南蘋)にはじまる。精緻な花鳥画の画風は南蘋に直接師事した熊代熊斐(ゆうひ)(1693‐1772)の門下の鶴亭(?‐1785),宋紫石(1716‐80)により近畿や関東に伝わり,江戸後期の画壇に写実主義の風潮がひろまる契機となった。…

※「沈銓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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