伊達行朝(読み)だてゆきとも

改訂新版 世界大百科事典 「伊達行朝」の意味・わかりやすい解説

伊達行朝 (だてゆきとも)
生没年:1291-1348(正応4-正平3・貞和4)

南北朝時代の武将陸奥国伊達郡地頭。宮内大輔。1334年(建武1)建武新政権の奥州式評定衆に列し,35年から翌年にかけて陸奥守兼鎮守府将軍北畠顕家に従って西上,足利尊氏を九州に走らせた。37年(延元2・建武4)義良親王(のちの後村上天皇),顕家らを伊達郡霊山りようぜん)に迎え,8月これに従い西上し畿内転戦した。38年(延元3・暦応1)以後北畠親房とともに常陸において戦ったが,40年(興国1・暦応3)陸奥に帰り,47年ころ北党に転じた。
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朝日日本歴史人物事典 「伊達行朝」の解説

伊達行朝

没年正平3/貞和4.5.9(1348.6.6)
生年:正応4(1291)
南北朝時代の武将。基宗の子。初名行朝のち行宗。左近将監,宮内大輔。奥州伊達郡の地頭で,伊達氏惣領。建武新政府方につき,陸奥守北畠顕家 を中心とする陸奥将軍府の中の式評定衆の一員。津軽,糠部地方に蜂起した北条与党の鎮圧出陣。建武2(1335)年顕家の遠征に従って上洛し,延元1/建武3(1336)年足利尊氏を九州に敗走させ帰国。延元2年義良親王(後村上天皇),顕家らを霊山に迎え,さらに顕家に従って再度西征。同3年北畠親房らと陸奥を目ざして伊勢大湊を出帆したが,常陸に漂着。伊達氏本貫の地伊佐城によって南党として活躍。興国4/康永2(1343)年落城とともに帰国し,田村宗季と共に南党として転戦。正平2/貞和3(1347)年の霊山落城のころ足利方に服属。

(伊藤清郎)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊達行朝」の意味・わかりやすい解説

伊達行朝
だてゆきとも
(1291―1348)

南北朝時代の奥羽の武将。後年、行宗(ゆきむね)と改称。元弘(げんこう)の変(1331)に北条高時(ほうじょうたかとき)の命で西上。建武(けんむ)政権下における陸奥国府(むつこくふ)の式評定衆(しきひょうじょうしゅう)、引付(ひきつけ)。足利尊氏(あしかがたかうじ)が反旗を翻したのち、1335年(建武2)12月北畠顕家(きたばたけあきいえ)とともに上洛(じょうらく)し、尊氏を九州に追う。こののち南朝側の武将として活躍。顕家の戦死後、一時吉野に移り、さらに常陸(ひたち)の北畠親房(ちかふさ)のもとに至る。40年(興国1・暦応3)ごろ奥州に戻り奥羽各地を転戦。その後南朝側不利となり、貞和(じょうわ)4年58歳で死去した。

[伊藤喜良]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊達行朝」の解説

伊達行朝 だて-ゆきとも

1291-1348 南北朝時代の武将。
正応(しょうおう)4年生まれ。陸奥(むつ)伊達郡(福島県)の地頭。建武(けんむ)の新政では北畠顕家(あきいえ)のもとで奥州式評定衆をつとめる。南北朝の争乱では顕家の2度にわたる征西戦にしたがい,畿内各地を転戦。顕家の死後も常陸(ひたち)(茨城県)伊佐城や本拠地の霊山(りょうぜん)城で南朝方としてたたかったが,のち北朝方に帰順。貞和(じょうわ)4=正平(しょうへい)3年5月9日死去。58歳。名はのち行宗。

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