日本歴史地名大系 「住吉城跡」の解説 住吉城跡すみよしじようあと 徳島県:板野郡藍住町住吉村住吉城跡[現在地名]藍住町住吉住吉神社西方の神蔵(じんぞう)にあった城跡。現在は水田となっている。「城跡記」には主将は山田陸大夫、天正年中(一五七三―九二)に落城とある。同一三年長宗我部氏攻撃に功があったとして、赤松則房が羽柴秀吉から阿波国内一万石を宛行われて播磨置塩(おしお)城(現兵庫県夢前町)から当城に入ったとされる(「城跡記」など)。この赤松領一万石は置塩領とよばれ、板東(ばんどう)郡内の中富(なかとみ)・本(ほん)・鳴瀬(なるせ)・乙瀬(おとぜ)・矢上(やかみ)・住吉・奥野(おくの)、大寺(おおてら)・矢宅(やたけ)・唐園(とうのその)(現板野町)、神宅神宮寺(かんやけじんぐうじ)(現上板町)、高房(たかぼう)・北村(きたむら)(現北島町)、宮河内(みやごうち)(現土成町)、宮島(みやじま)(現徳島市)、辻(つじ)・松(まつ)・板東・萩原(はぎわら)・高畠(たかばたけ)・西馬詰(にしうまづめ)・姫田(ひめだ)・大代(おおしろ)(現鳴門市)の計二三ヵ村・一万石(山寺とも)であった(慶長二年分限帳)。 住吉城跡すみよしじようあと 神奈川県:逗子市小坪村住吉城跡[現在地名]逗子市小坪五丁目鎌倉市と逗子市の境を飯島(いいじま)崎に延びる丘陵があり、北側は鎌倉光明(こうみよう)寺の裏山にあたり、鎌倉市立第一中学校で区切られる。ここから扇(おうぎ)山(六五メートル)に至り、南東方向へ「く」の字状に曲って小坪(こつぼ)中心部へ延び、その間に小支尾根を各所に突出す馬蹄形状の丘陵一帯が城跡である。光明寺側は自然地形を利用した崖だが、中学校側山腹には平場が認められる。扇山南側の正覚(しようがく)寺周辺は、山腹を幾段にも削平した跡が認められるが、現在は寺や民家が建つ。 住吉城跡すみよしじようあと 佐賀県:杵島郡山内町宮野村住吉城跡[現在地名]山内町大字宮野黒髪(くろかみ)山東麓の台地上にある。三方を黒髪山に囲まれ、東側が水田地帯を見下ろす。築城年代は不明であるが、武雄後藤氏の城であったことは確かである。「藤山考略」(武雄鍋島家文書)には、三代助明が鎮西八郎為朝に協力して黒髪山の大蛇退治をし、その直後築城したとみえるが、実際には大永六年(一五二六)と思われる(武雄市の→塚崎城下)。江戸時代の中頃に作成された住吉城跡絵図(武雄市蔵)には本丸と二の丸が菱形の土塁に囲まれ、西と南に幅五メートル、深さ三メートルの空堀が描かれている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by