宮野村(読み)みやのむら

日本歴史地名大系 「宮野村」の解説

宮野村
みやのむら

[現在地名]朝倉町宮野

須川すがわ村の西に位置し、北は下座げざ城力じようりき(現甘木市)、中央を朝倉街道が通り日田街道と合流する。「続風土記」によると村内に下比良松しもひらまつ町・二又ふたまた村・八坂やさか村がある。下比良松町は古くは平松ひらまつ町とよばれた。正保国絵図では入地いりじ村のなか町から平松町を通り、上平松村(比良松村)に向かう日田街道が描かれる。平松町の東には一里塚があった。下比良松は往還を挟んで民家が三〇戸ほどある(続風土記拾遺)

宮野村
みやのむら

[現在地名]嬉野町宮野

中村なかむら川中流沿いの山間部に位置し、たきがわ村の南西上流域にあたる。南北朝時代の「神鳳鈔」に「宮野御厨」とみえ、同書異本に内宮領とある。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写に「五斗 上瀬家司 みやの」とあり、内宮へ供米五斗を供進している。字古田ふつた宮野城跡があり、北畠氏家臣の居城という(伊勢名勝志)

文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に村名がみえ、石高三一四・〇五石とある。

宮野村
みやのむら

[現在地名]八女市宮野

高塚たかつか村の東、矢部やべ川右岸に位置する。中世は宇佐宮領。治安三年(一〇二三)七月一三日の筑後国符写(宇佐大鏡/平安遺文九)によれば、同年宇佐八幡宮は「宮野村」にあった装束用の桑園などの租税免除を国守菅野某に申請し、認められている。文亀三年(一五〇三)当地八町やたいら一〇町などが上妻新三郎(能家か)に安堵されている(同年一一月日「大友親匡安堵状」筑後将士軍談/増補訂正編年大友史料一三)。なお当地を名字の地とした上妻こうづま庄一分地頭宮野教心は、元弘三年(一三三三)足利尊氏や後醍醐天皇によって上洛を促され(同年六月一三日「前常陸介某召文」上妻文書/鎌倉遺文四一)、同年五月二六日に大宰府原山はらやま(現太宰府市)にいた尊良親王のもとに駆け付け(同年六月日「宮野教心着到状」同上)、さらに八月五日京都に馳せ参じて尊氏の証判を得(「宮野教心着到状」同上)、恩賞を得るために覆勘状の下賜を願出て袖判を得ている(同日「宮野教心申状」同上)

宮野村
みやのむら

[現在地名]金沢市宮野町

正部谷しようぶだに村の東、森下もりもと川右岸に位置。正徳二年(一七一二)の下通山川駅路之図(金沢市立図書館蔵)をはじめ江戸時代の絵図に小原おはら越がみえ、その道筋に沿う当時・高坂たかさか村・古屋谷ふるやだに村・清水谷しみずだに村付近に「小原」の地名が記されている。小原谷の通称もこの集落名によるのであろう。天文二四年(一五五五)七月江沼えぬま郡に侵攻した朝倉教景勢に対して、八月一三日加州四郡の一揆が反撃を試みたが、菅生すごう(現加賀市)へ向かった「賀北一郡」一万三千余騎の指揮者として「小原」某の名がみえる(朝倉始末記)

宮野村
みやのむら

[現在地名]中島町宮野

忽那くつな(現中島)の南岸に位置し、東は長師ながし村、西は神浦こうのうら村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「宮野村 日損所、芝山有」とみえ、村高一五八石五升三合、うち田一一六石五斗一升、畑四一石五斗四升三合とある。字吉広田よしひろたの天満神社付近から長師との境にかけて土師器・須恵器片が発見され、宮野古墳が存在する。中世は忽那氏の支配下となり、「伊予古蹟志」に「有故城、曰竹上、天正中保花図四郎左衛門所居也」と記されている。天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の四国征伐後は加藤嘉明蒲生忠知の支配を経て松平氏の松山藩領となった。住民の生業は明治一一年(一八七八)の「伊予国風早郡地誌」によれば「男農ヲ業トスル者百十二戸、男漁ヲ業トスル者六戸」で地味は「其土灰色基質悪シ、稲麦蕃薯ノ類ニ宜シ」と記され、蕃薯・薪の生産が多かった。

宮野村
みやのむら

[現在地名]西会津町奥川おくがわ飯沢いいざわ

ざわ村の北、奥川の東岸に位置し、耶麻郡吉田組に属した。本村の東方に端村白小牧沢しらこまきざわがある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に宮野とみえ、高一九一石余。寛文五年(一六六五)の「吉田組風土記」では高八四石余(うち新田一石余)、免四ツ二分四厘一毛、反別は田方五町五反余・畑方二町二反余、家数七(竈数一三)、男一三・女五、馬三(うち五調一)。綿役銀一三匁四分七厘・山役銀一匁六分・役漆木八二六本などを負担していた。貞享五年(一六八八)の村鑑(矢部家文書)では高一一六石余、家数一六、男四九・女四一、馬一〇。

宮野村
みやのむら

[現在地名]高島町宮野

かも川右岸の平坦地にあり、北東は鴨村。永享四年(一四三二)三月一一日の祥見田地売券(朽木文書)に宮野郷とあり、五石で「三尾神主下司殿」に売渡されている。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に「宮之郷」とあり、高五二〇石余。寛永石高帳では高七〇三石余、大溝藩領。慶安高辻帳では田方五七二石余・畑方一九石余・永荒一一一石余。鋳物師の存在が確認され、諸国鋳物師明細鑑(太田文書)に当村の釜屋三右衛門の名がある。また関助左衛門が中絶したため、享保(一七一六―三六)頃から釜屋与次兵衛・同又兵衛が再興したという。

宮野村
みやのむら

[現在地名]安佐北区安佐あさ町宮野

西流する太田おおた川が大きく流れを南へ変える。その内側川沿いに開ける小村。西および南は後山うしろやま村、下流東南が筒瀬つつぜ村、対岸は高宮たかみや勝木かつぎ村と今井田柳瀬いまいだやなせ村である。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では五〇石、「芸藩通志」では七三石。広島藩蔵入地であった。「西南に山を負ひ、東北は大田川に沿ふ、山高く地寒くして、耕作に便ならず、居民楮紙、竹器を作るもの多し」(芸藩通志)という状況で、太田川に面した村でありながら、下流の両四日市よつかいち村の河戸こうどと上流の毛木けぎ村に交代で藩の簗所が設けられたから、漁留の場所とされ、小鮎三貫の払下げを請願するほどであった(高路家文書)

宮野村
みやのむら

[現在地名]山内町大字宮野

黒髪くろかみ山の東麓、松浦川の西岸にある。

慶長絵図に村名がみえる。この村には小路くうじの字名が残っている。これは塚崎後藤氏が天正一四年(一五八六)二月、豊臣秀吉の命に従い住吉すみよし城を居城としたとき家臣を居住させた地域である。

この地域は平安時代は長島ながしま庄で蓮華王れんげおう院領。鎌倉時代には長島庄惣地頭橘薩摩氏の所領となった。室町時代は塚崎つかざき庄に属し、塚崎後藤氏の領地となり、江戸時代には佐賀藩武雄領。

宮野村
みやのむら

[現在地名]大河内町宮野

高朝田たかちようだ村の北、小田原おだわら川の中流域に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は寺前てらまえ村と同じ。正保郷帳では田方九二石余・畑方二一石余、「はへ山少・芝山有」と注記される。天保郷帳では高一三一石余。明治四年(一八七一)の播但農民一揆では当村民一人が罰金刑に処せられた(「神西・神東両郡暴動者罪案処刑」府県史料)。産土神は立岩たていわ神社。同社は中世播磨国一宮(現宍粟郡一宮町伊和神社)から分霊を勧請したと伝え、寛永一六年(一六三九)に本殿が建立されている(棟札)

宮野村
みやのむら

[現在地名]宇目町重岡しげおか 宮野

重岡村の西、市園いちぞの川流域に位置。明治初年に成立した村と思われ、旧高旧領取調帳に村名がみえ、高五五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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