住吉行宮(読み)すみよしのあんぐう

改訂新版 世界大百科事典 「住吉行宮」の意味・わかりやすい解説

住吉行宮 (すみよしのあんぐう)

南北朝時代,南朝の後村上,長慶両天皇の行宮正平一統(しようへいいつとう)のあと,後村上天皇は1352年(正平7・文和1)2月26日賀名生(あのう)を出発,河内東条を経て2月28日摂津住吉に到着,住吉大社の神主津守(つもり)国夏の住江(すみのえ)殿を行宮と定め,半月ほど滞在した。このあと天皇は八幡(やわた)(山城男山(おとこやま)行宮)まで進出したが,5月敗退して賀名生に帰った。その後も幕府内訌はつづき,この情勢を前に後村上天皇は54年河内金剛寺,ついで観心寺に移った。59年(正平14・延文4)から60年にかけて幕府軍は河内に大攻勢をかけたものの長続きせず,一方南朝内部でも赤松宮あかまつのみや)(護良(もりよし)親王の子興良(おきよし)親王)が賀名生を攻めるなどの事件がおき,60年9月,後村上天皇は再び住吉行宮に移った。住吉大社の神主津守氏に頼ることが当時の南朝にとってもっとも安全であったものと思われ,また幕府もこの段階では摂津住吉郡に支配を及ぼすことはできなかった。68年(正平23・応安1)3月11日,後村上天皇は住吉行宮で死没,ついで践祚した長慶天皇も当初住吉行宮にいたが,同年12月24日吉野行宮に移った。行宮の遺跡は大阪市住吉区墨江2丁目にある(国指定史跡)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「住吉行宮」の意味・わかりやすい解説

住吉行宮
すみよしのあんぐう

南北朝時代、南朝の後村上天皇・長慶天皇(ちょうけいてんのう)の行宮(仮の御所)。行宮に用いられた建物は「正印殿」と称し、一名「住之江殿(すみのえどの)」とも呼ばれ、大阪市住吉区住吉2丁目の現住吉大社境内地に住吉行宮跡という遺跡があり、国の史跡に指定されている。室町幕府の内部紛争である観応の擾乱(かんのうのじょうらん)により、足利尊氏が1351年(観応2・正平6)10月南朝に降伏して、一時的な南北朝合体(正平一統(しょうへいいっとう))が成立すると、後村上天皇は翌年2月賀名生(あのう)を出て南朝方の住吉社神主津守国夏(つもりくにか)の館を行宮とした。津守国夏は南朝から正三位に叙せられている。閏2月に後村上天皇は山城の八幡(やわた)に進んで京都を攻撃し、南朝軍は京都を武力占拠したが、3月尊氏・義詮(よしあきら)親子に京都を奪還され、5月に後村上天皇は八幡から賀名生に帰った。その後、南朝の内部分裂により、後村上天皇は1360年(延文5・正平15)9月住吉行宮に移り、10月住吉社に堺荘を安堵している。後村上天皇は1368年(応安1・正平23)3月ここで没した。ついで長慶天皇も当初ここを行宮としたが、12月には住吉行宮から吉野に還幸した。

[小西瑞恵]

『大阪市史編纂所他編『新修大阪市史 史料編3』(2009)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「住吉行宮」の意味・わかりやすい解説

住吉行宮
すみよしあんぐう

南北朝時代,後村上天皇行在所 (あんざいしょ) となった摂津住吉神社。正平7=観応3 (1352) 年2月 28日から閏2月 15日までと,正平 15=延文5 (60) 年9月から正平 23=応安1 (68) 年3月 11日までの間の行宮。この地で崩御。また長慶天皇も正平 24=応安2 (69) 年春までこの行宮に滞在した。

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