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長慶天皇 ちょうけいてんのう

デジタル大辞泉の解説

ちょうけい‐てんのう〔チヤウケイテンワウ〕【長慶天皇】

[1343~1394]第98代の天皇。在位1368~1383。後村上天皇の第1皇子。名は寛成。南朝側のため在位不明であったが、大正15年(1926)皇統譜に加えられた。

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百科事典マイペディアの解説

長慶天皇【ちょうけいてんのう】

在位1368年−1383年。後村上天皇の皇子。母は嘉喜門(かきもん)院藤原氏。名は寛成(ゆたなり)。摂津の住吉行宮(あんぐう)で践祚(せんそ)。南朝不振のころであったため,吉野・河内金剛寺(現大阪府河内長野市)・大和栄山寺(現奈良県五條市)と行宮を移した。
→関連項目楠木正儀後亀山天皇新葉和歌集

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

長慶天皇 ちょうけいてんのう

1343-1394 南北朝時代,第98代(南朝第3代)天皇。在位1368-83。
康永2=興国4年生まれ。後村上天皇の第1皇子。母は嘉喜門院。父のあと即位し,同母弟後亀山(ごかめやま)天皇に譲位したとされるが,在位したかどうかがながく論ぜられ,大正15年ようやく歴代にくわえられた。和歌にすぐれていた。応永元年8月1日死去。52歳。10年死去説もある。墓所は嵯峨東陵(さがひがしのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は寛成(ゆたなり)。法名は覚理,金剛理。別名に吉野帝,慶寿院。著作に「仙源抄」。
【格言など】わが宿と頼まずながら吉野山花になれぬる春もいくとせ(「新葉和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

長慶天皇

没年:応永1.8.1(1394.8.27)
生年:康永2/興国4(1343)
南朝第3代の天皇。後村上天皇の第1皇子,名は寛成,法名覚理。正平23/応安1(1368)年3月11日,父後村上天皇没のあとをうけて,南朝で践祚。すでに衰退の南朝にあって,河内(大阪府)天野山金剛寺,大和(奈良県)吉野山,栄山寺と御所を何度も移った。軍事的には劣勢であったが,文化的には天授1/永和1(1375)年に五十番歌合・五百番歌合御会を開いたのをはじめとし,和歌御会などを多く催すなど積極的であった。弘和1/永徳1(1381)年には宗良親王選の『新葉和歌集』を南朝の勅撰集に準ぜられた。本歌集には天皇の和歌53首が収められている。また『源氏物語』の言葉の注釈書『仙源抄』の著作もある。弘和3/永徳3年,弟後亀山天皇に譲位,上皇。没年を応永10(1403)年とする説もある。この天皇の即位は疑うものもあり,明治以降専門家による考証によって,大正15(1926)年に至って初めて歴代に列した。陵は京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町にあり,嵯峨東陵という。

(飯倉晴武)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ちょうけいてんのう【長慶天皇】

1343‐94(興国4∥康永2‐応永1)
第98代に数えられる天皇。在位1368‐83年。南朝第3代。後村上天皇の皇子。名は寛成。母は嘉喜門院藤原氏。1368年(正平23∥応安1)3月住吉行宮で践祚,以後吉野,河内国天野山,大和国栄山寺に移った。94年8月1日死去。その前に落飾,法名を金剛理と称した。南朝不振のころで事跡の伝わること少なく,在位も疑問視されていたが,八代国治らの研究により在位が確定し,1926年歴代皇統に列せられた。著書に《源氏物語》の注釈書《仙源抄》がある。

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大辞林 第三版の解説

ちょうけいてんのう【長慶天皇】

1343~1394) 南北朝末期の第九八代・南朝第三代天皇(在位1368~1383)。名は寛成。後村上天皇第一皇子。南朝不振の時期にあり、住吉・吉野・金剛寺・栄山寺など、皇居を転々とした。著に源氏物語の注釈書「仙源抄」がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長慶天皇
ちょうけいてんのう

[生]興国4=康永2(1343).吉野
[没]応永1(1394).8.1. 京都
第 98代,南朝第3代の天皇 (在位 1368~83) 。名は寛成 (ひろなり) 。後村上天皇の第1皇子。母は中宮嘉喜門院藤原勝子。正平3=貞和4 (48) 年父帝とともに穴生 (→賀名生〈あのう〉) に移り,その後も行宮を転々とし,正平 23=応安1 (68) 年父帝の死没のあとをうけて践祚。次いで同母皇弟煕成親王を皇太弟とし,弘和3=永徳3 (83) 年から翌年の元中1=至徳1 (84) 年の間に皇太弟すなわち後亀山天皇に譲位した。天皇の即位については古来疑問があり,『大日本史』は在位説,塙保己一は非在位説をとって明治に及んだが,八代国治の研究により,1926年皇統に加列された。学を好み『源氏物語仙源抄』を著わし,諸書の研鑽に努めた。また『新葉和歌集』は天皇の準勅撰。陵墓は京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町の嵯峨東陵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長慶天皇
ちょうけいてんのう
(1343―1394)

第98代天皇(在位1368~83)。名は寛成(ゆたなり)。法名覚理。長慶院また慶寿(けいじゅ)院とも称する。後村上(ごむらかみ)天皇の第1皇子。母は未詳。父天皇の後を受けて皇位につき、住吉、吉野、栄山(えいざん)寺などの行宮(あんぐう)に居住。譲位後数年間は院政を行ったらしいが、のち出家して仏門に帰した。長慶天皇の在位、非在位についての議論は、江戸時代以来の史学上の大問題で、『大日本史』は在位説を、塙保己一(はなわほきいち)は非在位説を唱えた。大正年間になり、在位を確証する『耕雲千首奥書』などの有力な史料が発見され、また八代国治(やしろくにじ)(1873―1924)が『長慶天皇御即位の研究』を発表するに及んで在位説は確実となり、1926年(大正15)10月21日に皇統加列の詔書が発布された。応永(おうえい)元年8月1日に崩じたことはほぼ確実であるが、崩御の地は明らかでない。同天皇の別称慶寿院は京都郊外の嵯峨(さが)にあった禅宗寺院に基づくが、天皇が晩年ここに居住したように解するのは誤りで、これは皇子海門承朝(かいもんじょうちょう)が亡父天皇の菩提(ぼだい)のために建立したものと考えられる。御陵は1944年(昭和19)2月11日慶寿院址に決定、嵯峨東陵と名づけられた。なお、長慶天皇は戦乱の世にあって学芸にも心を用い、『源氏物語』についての研究書たる『仙源抄』が今日に伝存する。また1376年(天授2・永和2)千首和歌会を行い、自らも千首をつくったが、その完本は伝存せず、そのうち204首の抄本が存在する。[村田正志]
『岩坪健編『源氏物語古注集成21 仙源抄 類字源語抄 続源語類字抄』(1998・おうふう)』

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